甲子園に名勝負があるように、地方大会にも高校野球ファンを引きつける対決がある。千葉大会では習志野-銚子商のカードだ。今年7月21日。久しぶりに実現した名門校対決は、5回戦というのに、舞台のZOZOマリンスタジアムに大勢のファンが詰め掛け、開門が早まった。

今から45年前、1972年(昭47)の夏。千葉県予選を勝ち抜いた両雄が、東関東大会決勝で激突した。結果は2-0で習志野の勝利。5年ぶり3回目の甲子園出場を決めた。2年生ながら、習志野の4番・ショートが掛布であり、掛布の甲子園デビューとなった。

掛布 当時から人には負けない練習をした自信はあったし、習志野という学校だったから、しっかりと戦えば3年間のうちに甲子園に行けるだろう、とは思っていた。でも、やっぱり現実のこととなると、うれしかった。オヤジも喜んだし、3年生の先輩もうれしそうだった。もちろん、監督や野球部関係者、学校、地元の方…。甲子園の影響力ってすごいと思ったね。

初めて甲子園の黒土を踏みしめた開会式は、あいにくの雨だった。今夏の第99回大会は台風5号上陸の影響で、1日前に順延を決めたが、掛布が甲子園に出た第54回大会は強行した。グラウンドがぬかるむというより、内野はプール状態の中の入場行進だったという。掛布は遠い昔を思い返すように言葉を選んだ。

掛布 何がビックリしたかというと、宿舎の食事。確か、西宮の山手の方の旅館だったと記憶してるんだけど、テキにカツというゲン担ぎで、ビフテキとトンカツが出てきた。おいしかったね。高校野球の甲子園の思い出っていうと、すぐにそれを思い出す。

よく食べ、よく練習し、よく寝る。プロ入りしてからも、体格に恵まれた選手ではなかった掛布を支えた「3要素」は、当時から掛布を支えていたのだろう。「ご飯を何杯食べたか分からない」。おなかいっぱいの食事を詰め込み、1回戦の東洋大姫路(兵庫)戦に備えた。

8月13日に行われたその試合は、午前8時開始だった。2年生の4番打者・掛布は4打数1安打。試合は後に阪神でチームメートになる山川猛に満塁本塁打を打たれ、3-5で初戦で敗退した。唯一のヒットはプロ入り後の打撃をほうふつさせるような左前打だったが、残念ながら校歌を聞くことはかなわなかった。

三塁側のアルプス席前に整列し、応援団に向かって深々と頭を下げた。その時、怖くて仕方がなかった先輩の3年生が人目をはばかることなく泣き崩れていた。もちろん、掛布も負けたことは悔しかったが、先輩の涙を目の当たりにして、打てなかった4番の責任を痛感した。掛布も泣いた。

不思議な縁だが、この時、一塁側のアルプス席には、掛布が24歳の時に結婚する安紀子夫人の母カヨ子さんがいた。姫路出身ということもあって、東洋大姫路を応援していた。後に娘婿となる習志野の4番「掛布」は、「なんだか変わった名字」という印象だったそうである。

その夏から数年後、掛布は阪神で甲子園の三塁を守り続けることになる。高校3年間はたった1度の甲子園出場。土を持ち帰ることはなかった。(敬称略=つづく)

【井坂善行】

(2017年9月5日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)