3年生最後の夏、柳川商(福岡)末次は初戦を4打数4安打で飾った。誰もほめてくれなかったが、打撃には自信があった。誰にも負けない練習量に裏打ちされていた。

末次 とにかく練習して自分の打撃をつくり上げた。いろんな形を次々に試していったこともあって、7色のフォームではないけど、それくらいフォームは変わっていった。

それは「進化」の証しだった。レギュラーの座を取り始めた1年秋からセンバツに出場した2年春までは、巨人王貞治のトレードマークである「1本足打法」だった。末次が1年時の74年、巨人王は13年連続本塁打王、さらに2年連続3冠王に輝いている。右打席で狭いスタンスから大きく左足を上げてタイミングを取るのが、当時の末次の特徴だった。しかし、1本足打法では打率が残せないと2年秋からは「すり足打法」に変えた。1本足打法時代だった2年夏まで、本塁打は1本だけだったが「すり足打法」に変えて以降、量産。高校通算が39本。2年秋から3年夏まで38本をマークしたのだ。

末次 もともと体だけは大きかった。ミートさえすれば打球は飛ぶようになった。

最終学年を迎えた末次の身長は188センチ。長打力に加え、ミート力も手にして、新チームからの練習試合を含めた打率は3割9分。4割近いアベレージを残すなど、すり足打法で8打席連続安打記録への基礎は築かれていた。

末次 今でいえばオリックスのT-岡田。あんなイメージかな。スタンスの幅を大きくして、すり足でタイミングをとる感じでしたね。

もちろん、調子の波はあったが、好不調の判断基準をしっかりと持っていたという。両手にできるマメの場所で判別していた。

末次 だいたい両手で合計11のマメができていた。左手は8つで、中指、薬指、小指の第1関節付近(指先側)にそれぞれ1つずつ。薬指と小指の付け根に1つずつ。親指付け根に1つ。小指下の側面に1つ。手のひら下の方に1つ。右手は3つで、中指、薬指、小指の付け根にそれぞれ1つずつ。それが、打てなくなると、左手の指にできるマメが第1関節ではなく第2関節にできたり、右手だと親指と人さし指の間付近にできる。変な力が入って、スイングがおかしくなっていると修正できていた。

スイング量が多くなければこんなチェックもありえない。素振りを繰り返し、マメを含めた自分の型を作り上げていった。

末次 竹バットで練習してましたね。詰まると痛いんですよ。下手なやつは内角球を打つ打撃練習で3球くらいでやめてましたね。私は血マメが出来るくらいやっていた。そして血マメがつぶれて血が出てバットが赤く染まるんですよ。とにかく痛かった。その手でユニホームを握って痛みをこらえていたのでユニホームも血まみれです。

「血のにじむ」思いの末に完成した打撃だったが、そこには運命のコーチとの出会いがあった。(敬称略=つづく)【浦田由紀夫】

(2017年10月5日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)