1961年(昭36)の冬、星野家が暮らす三菱重工水島の寮に黒縁眼鏡の紳士が現れた。「倉敷商野球部の、角田有三です」。母の敏子が家に招き、こたつを囲んだ。

数学の教師だという。水島中の星野が投げる試合を欠かさずに見に来ていたという。おもむろに「星野君、君の力で倉商を甲子園に連れて行ってくれ」と言われた。角田は選手としての経験はなかったが野球が大好きで、部の手伝いなどをしながら知識を蓄え、部長に就任し、直接口説きに来たのだった。

星野の中で、倉敷商への進学は全く頭になかった。「倉敷工業に行こうと思ってた。強豪だし、3年間で最低、2回は甲子園に行ける。それに家が三菱だし」。当時の岡山は倉敷工、岡山東、関西が頭ひとつ抜けた強豪。倉敷商は第2グループといったところで、しかも鳥取との2県で1代表を争う以上、甲子園へ行くには遠回りの選択に思えた。

もの静かな印象の角田だったが、訴える口調に迫力があった。倉敷商を甲子園の常連にしようと誓い、岡山県内で行われる中学の試合をつぶさにチェックしていた。星野のスケール、何より周囲を引き込む雰囲気にほれ込んでいた。「『来てくれ』と頼んだ訳じゃない。わざわざオレのために来て、こんなに熱心に口説いてくれた」。敏子は「倉商に行きなさい」とだけ言った。

当時の倉敷商は、野球専用のグラウンドがなかった。1912年(明45)開校の公立校。確実に甲子園を狙えるほどではない野球部を、特別扱いする空気もなかった。「ハンドボールもやるわバレーボールもやるわ…危なくてしょうがなかった」。グラウンドの周囲は、イグサと田んぼがどこまでも広がっていた。

請われて入ったとはいえ、いきなりエースになれるほど甘くはなかった。2年上の背番号1に宮原勝之がいた。巨人からドラフト指名を受けるも断り、法大から当時の本田技研に進んだ左腕。「宮原さんの真っすぐとカーブを見て、ボコ~ンと殴られた気がした。『上には上がおるなぁ』って」。スタートラインは他の新入生と変わらなかった。

1年生の大事な仕事として、先輩の打ったファウルやホームランボールの捜索があった。田んぼに入ったボールはすぐに分かるが、湿地帯に生い茂るイグサの中に入ると大変だった。貴重な硬球を見つけられないと、ひどく怒られた。

大変なはずのボール探し。しかし星野はじめ1年生は「今度はオレの番だ」と競って茂みへ駆けた。(敬称略=つづく)【宮下敬至】

(2017年11月4日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)