西田真二-木戸克彦のバッテリーを擁するPL学園は、全国屈指の激戦区・大阪でも、その強さは際立っていた。1978年(昭53)のセンバツは準々決勝で和歌山の箕島に敗れたが、ベスト8。1学年下に牛島-香川がいた浪商(現大体大浪商)や近大付、明星など、強豪私学がひしめく中、PLは西田が1人で投げ抜き、夏の大阪を勝ち上がった。甲子園大会の下馬評は、ダークホース。2回戦から登場したPLは順当に勝ち上がって、準決勝で愛知の中京(現中京大中京)戦を迎えた。

「野球は筋書きのないドラマ」といわれるが、一方では「野球の常識」というものもある。中京が3-0で進めた試合は9回表、中京がもう1点を加え、4点リードになった。つまり、「野球の常識」からすれば、この1点はダメ押し。ほぼ試合の行方を決める大きな1点になるはずだった。

9回裏、最後の攻撃を迎えたPLは、監督の鶴岡泰(現山本泰=72)が円陣を組むナインに向かってゲキを飛ばした。「0-4じゃ恥ずかしいぞ。1点取れ、1点取ろう」。この監督のゲキを、先頭打者の4番西田は聞いていない。

西田 このまま負けられん、という気持ちはありましたが、だからといって、ボールを待つ気はありませんでした。気持ちを集中させ、思い切り振ることだけを考えていた。

初球、少し詰まり気味だった西田の打球は一塁線を抜けた。これも、「野球の常識」からすればセオリー無視なのだが、西田は4点もリードされているのに、二塁で止まらず、三塁まで走った。微妙なタイミングだったが間一髪セーフ。これが、奇跡の逆転のプロローグとなった。

続く5番柳川の左越え二塁打でまず1点。1死後、7番戎の中前打で2点目。さらに8番山西の左前打で1死一、二塁とチャンスが続いた。生還してベンチに戻っていた西田は、このころからスタンドの異様な盛り上がりを感じ、投手交代に動いた中京ベンチの焦りが伝わってきた、という。

監督の鶴岡泰は9番の中村を「気が弱く、どうせ打てないなら送らせよう」と、2死と引き換えに犠打での二、三塁を選択した。1番谷松が四球を選び2死満塁。続く2番渡辺が二遊間に放った打球は、遊撃からの二塁送球が間一髪セーフ、一塁転送も間に合わず、この間一気に2人の走者が生還して、PLはアッという間に4点差を追いついた。

「野球の常識」では、こうなれば追いついた方が有利に決まっている。延長12回、PLは押し出し四球でサヨナラ勝ちを収める。監督の鶴岡は「こんな試合、一生に1度味わえただけでも幸せ」と語ったが、一生に1度では終わらなかった。(敬称略=つづく)【井坂善行】

(2017年11月26日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)