1966年(昭41)春にOB会に請われて野球部監督を引き受けたとき、23歳の尾藤公は期限は3年と決めていた。だが「フォア・ザ・チーム」の心を伝えようと采配とノックをふるううち、春夏秋冬は過ぎ去った。

就任2年目でエース東尾修(元西武)を擁してOB会の悲願だった甲子園初出場をかなえ、いきなり4強。70年春には甲子園の頂点に立った。だが「甲子園に出るからには優勝」と常勝を期待されるようになり、72年センバツ初戦敗退で、これまで支えてくれた後援会との間に溝ができた。

周囲の心が離れたことを悟り、辞表を出して2年半野球部を離れた。再び学校、OB会と折り合って復帰したのちは、77年センバツで2度目の優勝。79年は史上3校目の甲子園春夏連覇に導いた。同年夏の3回戦・星稜(石川)戦は、高校球史に残る延長18回の名試合となった。記録にも記憶にも残る春夏を経て、尾藤は40代を迎えた。

長男強の箕島卒業から何年かのちの練習中、コーチの松下博紀は恩師のうめくような声を聞いた。選手の動きが意図したものではなく、松下が尾藤の“落雷”を覚悟したときだった。

松下 突然、動きが止まったんです。そして言うたのは「昔のヤツらは、たたいたらパーンと太鼓みたいにはね返ってきたけど、今のヤツは破れてしまう。だからもう、やったらあかんわ」と。

鉄拳という金棒を鬼の尾藤は携えてきた。その金棒の納め時が来たときを、悟った。金棒に代わるものを見いだす時期が来ていた。名コンビだった箕島元野球部長の田井伸幸が語る。

田井 自分が好きな野球を子供たちがやってくれている。そういう子供たちへの満足感を常に持っていて、厳しさと隣り合わせというか、表裏に抱きかかえる一種の愛情ですね。子供を見る目に何が必要かを常に考えている人でした。

深い愛情がこもっていても、手を上げての指導に選手が応えられなくなっていることに尾藤は気付いた。新たに尾藤が求めたのは、言葉に力を持った指導者像だった。教員だった田井が舌を巻くことがあった。

田井 自分で目標を設定したら、その目標を知らない者までそこの目標に連れて行くまでの手だて、工夫を考える。そういうことが上手だった。

08年、66歳になった尾藤は、日本高野連が若手指導者育成のために開いた「甲子園塾」の初代塾長に就任する。開講に動いた日本高野連元事務局長の田名部和裕が述懐する。

田名部 一番の目的は体罰防止でした。受講に来られた先生方は「体罰がいけないのは、分かっている。でも、すとんと腹に入っていかないんです」と話していた。そんな受講者を前に塾長は話をしてくれた。

涙ながらに尾藤は訴えかけた。「種をまいて水をまいて肥やしをやって、辛抱強く成長を待つ。大事に野菜を育てるのと同じです。選手を殴って何もいいことはなかった。体罰に頼らない指導、手を上げない指導を目指してほしい」と。尾藤の涙を、田名部は忘れない。長い指導者人生の末に生まれた信条を若い指導者に伝えたことに、田名部は「尾藤さんにお願いして良かった」と感謝した。

「子供をひきつけるための努力を続ける。人間的な魅力にあふれた指導者なら、子供はついてくる」。その信条があればこそ、鬼だった尾藤は、金棒を封印した。(敬称略=つづく)【堀まどか】

(2018年1月4日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)