迷った末に、小倉全由は母校の日大三への監督就任を決断した。日大三の校長が、関東第一の校長のもとに3度も足を運び、頭を下げてくれたことにも心を動かされた。だが、17年ぶりに戻った母校は小倉の知る日大三ではなかった。

寮に泊まった初日、目を疑った。夕食後、テレビの前に選手が集まって、笑っていた。「何してるんだ?」と聞くと、「今、一番面白いテレビやってるんで」と言われた。「関東一の選手はこの時間、競うように練習してるぞ」と言ったが、誰も動かなかった。

小倉は、意識改革から始めた。就任当初、練習の準備や洗濯は1年生の役目だった。小倉は3年生を集め、お願いした。「練習の準備、洗濯はみんなでやってくれ。お前ら、頼むな」。3年生が1年生の時は全て自分たちの役目だった。不満を抑えるために、監督自ら頭を下げた。

あしき伝統も排除した。春の大会、メンバー入りした1選手の起用に疑問を投げかける投書が届いた。小倉は親を集めて「陰でやるのはやめませんか」と話した。罰としての草刈りや掃除もやめ、野球に集中する環境を整備。約3カ月の指導となる3年生には「この夏、お前らと甲子園に行きたいんだ」と本気で訴えた。

小倉 精神論も大事ですけど、選手は野球をやりに来ているんですから、野球で育てないと。

肉体強化から始め、選手たちの練習量も日を追うごとに増えた。チームはわずか3カ月で劇的に変化し、夏の西東京大会で4強入り。3年生の親から「野球をやらせてくれて良かった」と感謝された。就任から1年半後には秋の都大会で優勝し、センバツに出場。チーム打率3割8分9厘は出場校中トップだった。

小倉 バッティングが好きなんです。打てなかったら面白くないですから。

小倉の打撃論は、シンプルである。打撃練習中、選手には具体的に指摘する。「今のは後ろの肘がうまく使えたから、いい打球が飛んだんだぞ」「今のは前に突っ込まずに回転できたから、良かったんだ」。

小倉 ほめて伸ばすというけど、ちやほやするのとは違うかなと。「うまいよ」じゃなく、ポイントで言えばやる気になります。

01年夏の甲子園、日大三打線は圧倒した。チーム打率は当時、歴代最高の4割2分7厘。夢見続けた甲子園の頂点に立った。小倉は淡々と優勝インタビューに答えたが、都築克幸(元中日)の活躍を振られた瞬間、涙があふれた。都築はセンバツ3回戦の東福岡戦で、1イニング3失策。5失点でチームも3-8で敗れた。大会後、都築には連日ノックを打った。いつも練習着が真っ黒だった。

小倉 都築とのノックが頭によみがえってね。あいつもつらかっただろうなと思ったら、一気にね。

秋のドラフト、野手では都築、内田和也(元ヤクルト)、投手では近藤一樹(現ヤクルト)、千葉英貴(元横浜)が指名された。同一ドラフトで同一高校から4人は歴代最多タイだった。プロでも活躍が期待されたが千葉、都築は4年、内田は6年で引退。小倉はプロの厳しさを痛感し、進路への考え方を再考した。

小倉 あの代でも、3人は数年で終わった。プロは難しいんだなと思ったし、甘い世界じゃないなと。

16年ドラフトで坂倉将吾が広島から4位指名を受けるまで、直接プロ入りした選手は現れなかった。それでも、阪神高山俊、ロッテ関谷亮太らが大学、社会人を経てプロ入り。高山が新人王を獲得するなど、小倉の親身な指導はプロでの飛躍に結び付く。(敬称略=つづく)【久保賢吾】

(2018年1月15日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)