雪上練習で雪国のハンディを乗り越えた反骨心は、父の影響が大きい。香田は1971年、佐賀市で次男として生まれた。父明宏について「1本筋が通っていて曲がったことが大嫌いな人だった」。5歳上の兄博文の影響で小2で野球を始めてからは、父が道具を手作りし、毎日のように庭先で練習を手伝ってくれた。

小学生の頃、親戚一同が集まった正月の宴席での出来事だった。酔っぱらった親戚の1人が、当時、佐賀商野球部の兄に「高校入っても、補欠なら意味ないやろ」と絡み出した。「レギュラーかどうかなんて関係ねえや! 3年間、務め上げるのが大事なんだ」。取っ組み合いのケンカが始まりそうなほど激怒した父の姿が、忘れられない。

香田 誠実な人だった。おやじの考え方は、今も自分の根っこに染み付いている。試合に出なくても何とかしようという子たち、一流じゃなくても頑張る子ほど気になって仕方がない。それは、おやじから俺へのプレゼントだった。

電設工事の仕事をしていた父は、台風が来れば家々の屋根に上がってアンテナを直すなど、地域の人たちから頼られた。「おやじは俺のヒーローだった」。その父が49歳で他界したのは中学2年の時。食道がんだった。

香田 高校が佐賀工出身だったからラグビーが好きで。本当は俺にも佐賀工でラグビーをやって、花園を目指して欲しかったんだと思う。死ぬ間際に「お前は運動神経がいいけん、ラグビーせんか」って。それが、最後の言葉だった。

父を失った寂しさはなかなか埋まらず、私生活は荒れに荒れた。額の生え際に見事なM字を描くそり込みは、当時の名残だ。他校の生徒とケンカになって警察に2度、補導され、佐賀商の推薦入試にも落ちてしまった。でも、絶望はしなかった。「推薦がダメなら一般入試で入ればいい」。反骨心に、火が付いた。

小中高と同じチームでプレーした幼なじみで、現佐賀商監督の森田剛史(46)が、懐かしそうに振り返る。

森田 小学校の時は僕ら2人が主役で3、4番。中学の時は練習をサボっていたけど、高校に入ってからは見違えるくらい真面目に練習してた。彼の良いところは「徹底」なんですよ。

「推薦組には絶対に負けない」と決めた香田は、居残りの練習量で他を圧倒し、授業中も机の下でダンベルを手に肉体を鍛えた。高3の夏、甲子園で描いたアーチは努力の結晶だった。

プロを目指していたから、大学は東都リーグの強豪、駒大を選んだ。亜大へ進んだ森田は、リーグ戦で何度も対戦することになる。

森田 香田はバリバリのレギュラーではなかったけどムードメーカーだった。高校野球みたいに全力疾走。神宮ガイドブックに「駒大の香田君はベンチからレフトのポジションまで10秒で行く」って書かれてましたもん。神宮でそんな選手いないから目立っていた。

当時の東都はドラフト上位でプロ入りした選手がひしめいていた。「周りのレベルの高さを見たら全然違うじゃんって」。選手としての限界を悟った時、自然と選んだのが指導者の道だった。(敬称略=つづく)【中島宙恵】

(2018年1月28日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)