指導者への思いに拍車をかけたのが、94年夏の得難い成功体験だった。

駒大4年時の夏休みを前に、香田は母校、佐賀商(佐賀)の臨時コーチとして甲子園に付き添った。大正時代創部という歴史の中で、OBたちから「甲子園出場では史上最弱」と言われたチームがあれよあれよと勝ち進み、県勢初優勝。最後は決勝史上初の満塁本塁打まで飛び出した。

香田 びっくりした。勝つたびに選手たちは「俺たちは強い」って、すてきな勘違いをしていった。あのチームで全国制覇できるんだから、北海道のチームでできないっていうことはないんだよ。

後に駒大苫小牧の監督になった時、この体験がどれほど励みになったことか。

この時、香田の指導者としての適性を見抜いていた人物がいた。東都リーグが誇る名将で、05年まで駒大監督を務めた太田誠(81)だ。

太田 香田はいいリーダーなんだと思った。選手時代もベンチで元気良く声を出していた。先天的に前向き。腐ることがない。練習中も、先頭に立って走っていた姿が目に浮かぶよ。

駒大苫小牧から太田のもとへ野球部監督の相談があった時「直感的に香田がいいと思った」と、真っ先に頭に浮かんだ。

香田 母校で指導者になりたかったから、商業科の教員免許を取るため大学に残っていた。なのに、おやじ(太田監督)が「次男なら、どこへ行ってもいいな」って。「あれ? 俺、2年間大学残るって監督に言わなかったっけ?」と思ったけど、逆らうなんてできないでしょ。

大学の総務部で振る舞われたカツ丼を「なんか丸め込まれちゃったな」と思いながらも、おいしく食べた。進路が、決まった。

北海道内ですら、高校野球で駒大といえば「ヒグマ打線」でセンバツ4強入りした駒大岩見沢が有名だった時代。社会科教員の資格はあったが、苫小牧と聞いてもピンとはこなかった。初めて駒大苫小牧を訪れたのは、95年の初冬。駒大苫小牧野球部は秋の室蘭地区予選で早々と敗れて以降、監督が不在だった。

香田 グラウンドに行ったら選手がランニングしていた。ユニホームは着ていないし、長髪もいる。「髪、長いんだね」って聞いたら「オフは伸ばします」って返事に愛想がない。

キャッチボールをさせても、塁間の半分の距離ですら悪送球やワンバウンドになった。専用グラウンドはあったが、どれだけ整備しても、一般生徒が当然のようにそこを突っ切って登下校した。

香田 正直「えーっ」て。自分がやってきた野球とはズレがありすぎた。一般生徒にもなめられてた。自転車でグラウンドに入るなんて、とんでもないよ。注意したら「こっちの方が近いべや」だって。放課後には、カップルが手をつないでマウンドの上を平気で歩いて行くんだから。こんな風に思われて、情けないチームだなって。

佐賀の名門校で甲子園に出場し、大学球界の最高峰でプレーしてきた身にとっては、異次元の世界。ゼロからのスタートだった。(敬称略=つづく)【中島宙恵】

(2018年1月29日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)