全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」第12弾は、星稜(石川)を率い、現在は同校の名誉監督を務める山下智茂さん(73)です。箕島(和歌山)との対戦など、数々の名勝負を残した山下さんの物語を全5回でお送りします。


85年8月、テレビ放送で解説をする星稜・山下智茂監督(左)と箕島・尾藤公監督
85年8月、テレビ放送で解説をする星稜・山下智茂監督(左)と箕島・尾藤公監督

こんな光景は、見たことがなかった。79年夏の甲子園。星稜を率いて13年目、甲子園初出場から8年目の夏だった。3回戦・箕島戦の試合後、山下は、初めて見る両校選手の姿に身震いした。

山下 箕島の選手は泣いてるし、うちのは笑ってる。うわあ、すごいなって。勝ってるチームが泣いて、負けてるチームが笑うという、ああいうシーンを高校野球で初めて、僕は見ました。また、たくましくなったな、うちの選手。すごくワクワクした気持ちになりました。

戦い終えてなお、そんな心持ちになれた一戦だった。

山下率いる星稜が同年センバツ王者の箕島に挑んだ試合は、高校球史に残る激闘になった。4回に1点ずつを取り合い、1-1で延長へ。延長12回、16回と星稜が1点を勝ち越したが、箕島はいずれも2死無走者から同点弾で追いついた。驚異的な粘りの末、箕島が延長18回、上野敬三の殊勲打でサヨナラ勝ちした。試合時間、3時間50分。「奇跡が2度起きた」と言われた。教え子をねぎらい、試合後の山下は「抱きしめてやりたい」の言葉に万感を込めた。

山下 センバツの優勝校でスター選手がたくさんいる箕島に対し、うちは団結しかない。それがあれだけ食い下がった。体力は限界だった。精神力でした。

元日本ハム北安博、元中日若狭徹、同じく音重鎮とのちに3選手をプロに送るが、大会前は戦力的に注目されたチームではなかった。

山下 正直言って弱いチームやったんです。弱い、弱い、弱いって言いながら奮起させてたんですけど。

石川大会で2年ぶりの甲子園出場を決めたときも、地元の期待は静かなものだった。当時のエースで現在は春夏甲子園などで審判を務める堅田外司昭が、18歳の夏を振り返る。

堅田 石川の決勝の解説の方が、甲子園で1回戦、勝てるかどうかと言われたくらいのチームでした。確かに、いいチームが出てましたね。でも、競っていい勝負ができるんと違うかなと、僕らがそう思ってた。そう思わせてくれました。うまくね。

この年の夏が記憶に残る夏になったのは、星稜ナインの「全力」を引き出した山下の力も大きかった。

山下は猛将だった。手のひらの皮が血のりでバットと一体化し、はさみで切らなければ離れないほどの猛ノックをふるって選手を鍛え上げた。78年夏の石川大会決勝で金沢に完敗したあと、新チームの真夏の練習は12時間以上に及んだ。選手が力尽きて倒れることも日常茶飯事。そんな猛練習を積んでも、同年秋の北信越大会は決勝で敗れた。そして、ついに選手はグラウンドに来なくなった。練習をボイコットしたのだ。ただ山下によれば、それも作戦だったという。

山下 ボイコット、仕掛けたんです。弱いから、団結力がないもんだからボイコットさせて、選手がガチッと固まるようなチーム作りをやってほしいなということで。だから、めちゃくちゃひどい練習をやりました。選手がまとまって「もう1回やらせてください」と言ってきたときに、これはいけるなと思いました。

叱咤(しった)し続け、その気にさせていったチーム作りの過程。仕上げは、エースだった。(敬称略=つづく)【堀まどか】

◆山下智茂(やました・ともしげ)1945年(昭20)2月25日、石川県門前町(現輪島市)生まれ。門前から駒大を経て、67年に星稜監督に就任。72年夏に同校を初の甲子園に導き、95年夏はエース山本省吾(元ソフトバンク)を擁して準優勝。05年に退任し、同校の名誉監督に就任した。甲子園通算22勝25敗。教え子に元中日小松辰雄、巨人、ヤンキースなどで活躍した松井秀喜らがいる。

(2018年2月27日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)