さらば平成、ありがとう平成。30余年にわたる平成が終わります。あんなことがありました。こんなこともありました。プロ&アマ野球、サッカー、芸能、社会、中央競馬…と平成を通してがっつり取材してきた日刊スポーツ大阪本社のベテラン記者陣が、それぞれの分野での取材を振り返りながら、平成を語ります。

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容器が温かくなる駅弁があるのをご存じだと思います。ある米国人はあれを見て「日本はとんでもない」とその技術レベルの高さに驚いていました。あの駅弁を見ると、思い出す光景があります。

平成7年(95年)9月18日。優勝マジックを「1」としていたオリックス・ブルーウェーブが翌日からの西武3連戦(西武)に備えるために東京へ移動する日でした。新神戸駅に姿を見せたイチロー、そして田口壮の若手主力2人に売店の中年女性が駆け寄ります。

「これ。食べて」

「あ。ありがとうございます」

手渡したのは例の温かくなる駅弁です。2人はお礼を言って受け取りました。女性はニコニコしています。その光景を見ていて、ちょっとだけ、からかいたくなりました。車内で声を掛けます。

「それ。またタダか」

すると当時21歳のイチローはちょっとだけ照れたようなムッとしたような表情でこう言うのです。

「だって。くれるんだもん。しょうがないでしょ」

そこには前日涙を流していた表情からは完全に吹っ切れた様子がありました。

同年1月17日。阪神・淡路大震災が発生しました。当時の指揮官・仰木彬は「神戸のために今年は優勝する」と宣言。その言葉通り、優勝マジックを「1」とし、9月14日から地元・神戸での4連戦に臨みました。近鉄と1試合、そしてロッテ3連戦でした。

当時の勢いから見て、必ず地元で胴上げ決定。そう思い、見守りました。しかし、まさかの4連敗。その後は西武球場、東京ドーム(日本ハム戦)の遠征が続きます。神戸での優勝決定は事実上、消えました。

4連敗を喫した17日の試合後、球場を出る際に記者に囲まれたイチローの目には涙が浮かんでいました。

「応援していただいたのに。ここで決められず、神戸の方々に申し訳ないです」

そう言葉を絞り出しました。大きな責任を感じての戦いだったのです。

「弁当をあげたって、私らにはそんなことしかできひんからね」

そんな話をした売店の女性を見ていて、あらためて思いました。これが「がんばろう神戸」なんやな。みんな期待しているんやな。心からそう思いました。

災害とプロ野球。それは平成時代の大きなテーマだったと思います。その形が最初にできたのが「がんばろう神戸」ではないでしょうか。

災害で傷ついた人々が地元のチームの躍進で力を得る。そんな光景はここから始まりました。避難所で見ていた人々はオリックスの勝利に「オレらもやったるで!」と力を得ていました。

イチローは、その後、現在に至るまで謙虚な様子でよくこんな話をしています。

「野球で力を与えるとか言うけれど、野球が好きじゃない人にとっては関係ないでしょう。選手の側から“与える”なんて表現はありえないと思います。ボクたちにできるのは常に全力でいいプレーを見せることだけです。それを見て、ほんの少しでも何かを感じてもらえたら。そういうことなんです」

イチローの言うことはよく分かります。それでも当時、神戸の方々がイチロー擁するオリックスから力を得ていたのは事実です。

そんなオリックスを横目に平成7年(95年)、お隣の阪神タイガースは最下位に沈みました。当時のオーナー久万俊二郎は「震災が響いた」という趣旨の発言をしていました。

事実でしょうがオリックスが優勝しているのに、ちょっとつらい言い方でした。阪神ファンにとっては喜ぶオリックスファンを見ながら少しだけやるせない気持ちになっていたのも事実です。

そこから久万は大きな決断をします。低迷が続くチームを生え抜き監督では再生できないと判断。平成11年(99年)には野村克也を招き、そして平成14年(02年)には闘将・星野仙一を呼ぶのです。

平成15年(03年)、星野率いる阪神は18年ぶりのリーグ優勝を果たし、虎党を歓喜させました。震災から8年、遅まきながら阪神も地元に勇気をもたらしたのです。取材をしていて当時の阪神、ファンのエネルギーは本当にすさまじいものでした。

そして星野は再び災害から立ち直ろうとする地元のヒーローになりました。平成22年(10年)オフに縁もゆかりもなかった仙台を本拠地にする楽天監督に就任しました。

しかし開幕を前にした平成23年(11年)3月11日に東日本大震災が起こります。星野は打ちのめされました。しかし言います。

「俺たちには野球しかないんだ」

この気持ちは当時のイチロー、仰木彬に通じるものがあったと思います。野球で貢献する。それしかないということです。そして平成25年(13年)、歓喜のリーグ優勝から日本一という素晴らしい結果を残したのです。当時、こんな話をしました。

「監督は激動の星の下に生まれているんですかね」

星野は笑って言いました。「ホンマにな。大変な思いばっかりしてな。どうなっとるんやろな」。

それでも野球を愛し、野球に生かされていることを自覚していた闘将は笑顔を浮かべ、かみしめるように言っていたのです。

災害とプロ野球。そう書きましたが人間の悲しい別れは災害によるものだけではありません。

病気、事故、あるいは事件。そういったことで身近な人を失う悲しみは災害によるものと変わることはないと思います。

自分自身、そんな経験をしました。広島カープ担当だった平成12年(00年)11月に妻が突然、この世を去りました。35歳の若さでした。当時、小学校1年生を頭に幼稚園の年長、そして生後11日の娘3人が残されました。

なぜ先に。これからどうなる。

そんな思いに押しつぶされそうになりました。生活は母親、兄夫婦など親族の助けでなんとかなりましたが気持ちは毎日、本当に暗かった。そんな思いは次第に消えていったのも野球、野球の取材だったと今なら思います。虎番キャップだった平成15年(03年)、優勝を目前にし、星野とともに亡き妻の話をして2人で泣いたのは忘れられない思い出です。

そんな星野も昨年、この世を去りました。仰木もすでに天国にいます。そして今年、イチローが現役を引退しました。時代とともに、傷ついた人々とともに戦ってきた戦士たちも去っていきます。時の流れには誰も逆らえません。

プロ野球が興行以上の意味を持った平成が去りました。それでも人間と野球の関係は変わらないと思います。こんな関係が令和の時代も続いてほしい。そう思うのです。(敬称略)

平成15年9月16日付日刊スポーツ大阪版1面
平成15年9月16日付日刊スポーツ大阪版1面