甲子園のネット裏に、山口高志さん(68)の姿があった。16年3月に母校・関大野球部のアドバイザリースタッフに就任。大阪府吹田市にある千里山キャンパスに、毎日のように足を運び、投手を中心に指導している。18日は、関学大との「関関戦」だった。

 阪急の現役時代は「分かっていても打てない」と言われた剛速球投手。引退後はコーチやスカウトなどを務め、長くプロ野球界に貢献した。藤川球児を球史に残る剛速球投手へと成長させたのは、あまりにも有名だ。培ったノウハウを大学野球でも発揮しているのでは? 山口さんの「今」を知りたくて、話を聞きに行った。すると、意外な言葉が返ってきた。

南海対阪急 パの強打者から奪三振の山を築いた阪急入団1年目の山口高志=1975年、大阪球場投球フォーム 山口高志写真館 阪急での現役時代
南海対阪急 パの強打者から奪三振の山を築いた阪急入団1年目の山口高志=1975年、大阪球場投球フォーム 山口高志写真館 阪急での現役時代

 「今、自分に対して、一番イライラしている。なんで、この子たちをうまくできないのか、と。確かに今までの引き出しはあります。でも、それを使えない。自分が教育の勉強をしていなかったのが、一番しんどい」

 就任当初は、選手の指導に意気込んでいた。しかし才能ある選手が次々と入ってくるプロの世界とは違う。現実に直面した。

 「部員は200人いるが、大学から誘われて入ってくる選手は、1学年で8人ほど。全部で32人として、それ以外は勉強をがんばって入部した選手。高校では投手なら、ほとんどがエース級ではない。背番号が18番や19番。満足に野球をできなかったから、やり残したことがあるという感覚。できないことを注文してもいけない。教えているという雰囲気はほとんどない。『こういうところが弱いから、こういうことを考えてやろう』とかアドバイスは送りますが」

 大所帯のチームだが、技術的なレベルは選手によって差がある。全国一という高い目標を追いかけながら、山口さんは1つの境地に達する。

 「今、一番考えているのは、大学に来て、野球がやれてよかったな、というゴールを作ろうかな、と。200人いる部員で、170人は大学の4年間で野球を終える。短ければ、3年で就活に入る。その子たちが満足して、やれてよかったと思わん限りは、日本一はないと思う」

 就任3年目の今年。練習前、投手に部訓を暗誦させている。


 一、清掃の精神を重んじること

 一、礼節を重んじること

 一、人格の向上に努めること

 一、勉学に勤しむこと

 一、先輩を敬うこと

 一、錬磨に励むこと


 68歳になった今、その意味をかみしめている。大学スポーツはやはり教育の場でもあるのだ。

 「6項目ある中で、5つは人間形成なんです。最後に野球の練習を一生懸命やろう、とある。僕は大学時代、ほとんど授業には出なかった。でも、今はやかましいぐらい、授業に行っているか? と聞いています」

 授業のある日は、部員は午前9時半、午後1時10分、午後3時、午後4時40分、午後6時半と5班に分かれて、球場にやってくる。山口さんはブルペンで半日を過ごす。投球練習の球数は各自に任せているという。練習時間に制約があるため、技術指導はブルペンの外で行う。

 「プロでやってきたことは、練習の中で伝えることもあります。選手に任せている部分はありますが、ゲームに出たかったら、がんばらないといけない。今まで野球を長いこと見てきたが、努力しても結果の出ないスポーツのひとつ。でも、絶対に努力しないと結果は出ない」。

 関関戦の試合前、関大の学歌が流れた。ネット裏の山口さんはサッと立ち上がった。

 「何百回と聞いたり、歌ったりしたが、毎試合聞くたびに大学が好きになる。一段と好きになっていく。その積み重ねが伝統だと思う」

 この日の試合は9-3で快勝。試合後のミーティングに加わり、球場を後にした。最後に15年まで在籍した阪神のことを聞いた。「気になる選手はいますか?」。山口さんは苦笑まじりに言った。

 「それね…、俺の血はブレーブスやぞ(笑い)。でも、同じ釜の飯を食った選手は気にかかる。岩田(稔)も後輩に聞いたら、ファームでいい結果を出しつつあると言っている。藤川? 彼には本当に楽しんでやってほしい。そういう言葉は昔は使えなかったけどね」

 山口さんは、新たな環境で試行錯誤の日々を過ごしていた。指導者の道にゴールはない。山口さんが発した自分に対する「イライラ」が胸に残った。【田口真一郎】