ドラフト前夜の訃報だった。日本高野連の竹中雅彦事務局長が10月16日に亡くなった。64歳。約1カ月の入院生活。当日、容体が急変して旅立ちの時を迎えたという。任期満了を2カ月後に控えていた。

最後の数年だけでも次から次へと難題が降りかかった。9~10月のU18W杯では、日韓情勢悪化により急きょ、渡韓時に日の丸のないポロシャツをチームで着用することを決断した。

「なんや、日本でいろいろ言われているみたいやなあ。僕らからしたら、それくらいのことで少しでも(選手が)危ない目にあうリスクが下がるなら、迷わずそうするけどな」

センシティブ極まる国際問題だけに、波紋を呼ぶことは分かっていた。だが、現場一筋、チームの最前線にいた竹中先生からすれば「生徒を守る」ための当然の行動だったようだ。

W杯のあった韓国で、1日に5度は一緒にたばこを吸った。あれはW杯開幕前夜だったか。「まあ…正直きついで。夜中に繁華街を1人で歩いてるのを見つけても、見て見ぬふりしてや。(任期満了目前に)スキャンダルで終わったらシャレにならん」。どんな難局も豪快に笑い飛ばす人だが、その夜のジョークは力なく感じた。

最後に公の場に出てきたのは9月20日の有識者会議。球数制限の問題が一定の決着を見た日だった。元気そうに見えたが、ほどなく病床に伏した。大きな問題に区切りがつき、安心したのだろうか。その日は高野連が金属バット改革に乗り出すことも発表された。ちょうど記者が日刊スポーツに連載を書いた日で、竹中先生も読んでくれていた。翌日付ではバット問題について書いています、と伝えた。

「おもろいの書いてたな。明日は何書くんや。おう、バットか。そら読みたいなあ。どんぴしゃのタイミングやんか。今日発表あるって、分かってたんか? さすがやなあ、怖いわ」。いつもの竹中節。もちろん偶然のタイミングだったのだが「知っていたに決まってるじゃないですか」と返すと「ガハハハ」。わずか数カ月のお付き合いだったが、竹中先生の反応が聞きたくて原稿を書いたことが何度もあった。

高野連の駐輪場、甲子園ロビーの喫煙所。最高の取材エリアで、癒やしの空間だった。もう一緒にたばこを吸えないのが寂しい。【柏原誠】

出国ゲートへ向かう奥川(右)と佐々木(左)(撮影・丹羽敏通)
出国ゲートへ向かう奥川(右)と佐々木(左)(撮影・丹羽敏通)