今春センバツ16強の明秀学園日立が、8強で姿を消した。

 主将増田陸遊撃手(3年)の熱い夏が終わった。投手や内野陣にも常に声を掛け、フィールドの真ん中からナインを鼓舞した。打席に入る前には、ヤクルト山田哲人内野手(26)の応援歌の替え歌を歌うスタンドの歌声に合わせ「夢へと続く道」のフレーズを口ずさむ場面もあった。いつも通り、左足を高く蹴り上げるルーティンをこなし、0-8で迎えた8回裏無死一、二塁での打席。コールド負けもちらつく中、意地の1発を放り込んだ。

 思い切りよく引っ張った打球は左翼スタンドに飛び込み、3点をかえした。何度もガッツポーズし気持ちを出しながらダイヤモンドを回った。野球帽のつばに書いた「熱男!!」の通り、増田の熱い1発で反撃ののろしを上げたものの、9回裏は無得点。逆転勝利には届かなかった。

 敗れた後は、土浦日大の校歌を、悔しさを押し殺しながら聞いた。「もっと投手(細川拓哉)に熱く声を掛けられたんじゃないか、もっとみんなに声を掛けられたんじゃないかと、今こうして終わってみて思うところはあります。でも、主将として、最後まで誰よりも声を出すことはできたかな」。

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 昨夏16強で敗れ、増田らの代の新チームが始動してまず取り組んだ練習は、「行進」だった。昨年8月上旬からの1週間、2、3時間ほど一糸乱れぬ行進を目指して歩き続けた。5人が横に並び、かけ声と手足をそろえて行進する。

 一見野球とは関係が薄いように見える練習だが、金沢成奉監督(51)は「団結力を高めて、みんなが妥協せずに同じ方向を向けるように、まるで軍隊のように行進させました」と説明。「その中でも真っ先にダウンしたのが主将の増田でした」と苦笑いする。

 増田は「自分は真剣にやっていたのに、監督さんから『まとまらん』と言われて。主将もやったことのない自分ではチームをまとめるのは無理なんだ、と逃げたいとも思った」。大阪に住む両親に電話し、大阪に帰りたいと伝えると「今まで野球を支えてきたのに、こっちも何をやってきたのか分からなくなってしまう。自分の夢、人生は自分でつかみ取れ」と息子にハッパを掛けた。

 泣き言を言っている場合ではない、やるしかないんだ。「行進の練習でも妥協をなくそう」と自身を奮い立たせたところから、このチームでの野球が始まった。

 主将としてチーム全体にも気を配りながら、昨秋からはウエートトレーニングにも力を入れた。ベンチプレスは90キロから110キロに、スクワットは200キロから250キロ、デッドリフトは120キロから180キロが挙がるまでに筋力を徹底的に鍛え抜いた。秋から冬にかけて、体重も9キロ増えた。

 新チーム始動からの1年間を振り返り、「本当にバラバラのところからスタートしたけれど、今は本当に仲が良くてまとまりのあるチームです」とチームメートを誇った。

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 甲子園は小学校からの夢だった。小学1年の時に此花トライアルで軟式野球を始め、小学校6年になった梅香小の卒業式のこと。卒業証書を受け取った児童がそれぞれの思いを壇上で一言話す際、増田は「お父さんとお母さんを甲子園に連れて行きます!」と頼もしく宣言した。母亮子さん(45)は「あの時はうれしくて泣いたのを覚えています」。有言実行した。大阪福島リトルシニア時代にはタイガースカップで、明秀学園日立では今春のセンバツで両親を2度甲子園に連れて行った。

 二度あることは三度ある-、信じて亮子さんも大阪から茨城に応援に駆けつけたものの、夢には届かなかった。敗れた後、増田は「期待に応えられなくて、親にはごめんという気持ち。支えてくれてありがとう、と伝えたい」。支えてくれた両親への感謝を気丈に口にした。

 高校野球に一区切り。「甲子園に行けていたらプロ志望1本で行こうと思っていたんですけれど、(行けなかったので)親ともこれからの人生を話し合って決めたい」。プロ野球選手になるという夢は「あきらめていない」。

 増田の「夢へと続く道」はまだまだ終わらない。【戸田月菜】