「甲子園史上最高の二塁手」「消えた天才」。常葉学園菊川(現常葉大菊川=静岡)で07年センバツ優勝、08年夏に準優勝した町田友潤さん(29)は、テレビやネットでこう紹介される。

日刊スポーツの記者が、懐かしい球児たちの現在の姿や当時を振り返る不定期連載「あの球児は今」。軽快な身のこなしで好守を連発した二塁手は、野球界を離れ、意外な施設の経営者となっていた。

好守で甲子園を沸かせた町田氏は現在、浜松で障がい者向けの放課後等デイサービス施設「グリーピース」を経営している。きっかけはセンバツ優勝報告会後、信用金庫の前だった。「障がいのある男の子とお母さんに『励みになりました』と言っていただいた。野球をやっているだけなのに。現役のうちは元気とか勇気になればいい。いつまでも現役ではいられない。引退したら直接、携わりたい」。こんな気持ちを抱き始めた。

甲子園ではアクロバティックな守備を連発し、早大に進んだ。1年生から4人だけの寮生に選ばれたが、夏に退部した。「自分が思い描いている感じではなかった。もっと野球に集中できると思っていた。(先輩から)いじめられたとかは一切なかった。今思えば子供だったかな。今の方が(世の中)理不尽は多い。経験の4年間と割り切れなかった」。周囲から止められたが、1年限りで中退。ヤマハに進んでいた元同僚の戸狩聡希氏を通じて誘われ、社会人野球に飛び込んだ。

ヤマハでは「もう1度やろう」と、野球に没頭した。だが、プロ野球には「入るだけじゃだめ。活躍するのは厳しいと思っていた」。高校時代から、原因不明の腰痛を抱えていた。長時間立っていること、同じ体勢がきつくなった。「思うような結果が出なかった。これ以上やりようがなかった」と4年間で引退。経理の社業に専念した。

この時期、偶然にも知人の障がい者施設を見学した。高校時代に抱いた思いが再燃。開所を決意した。1年弱、同様の施設で研修し、サラリーマン時代にためた資金で17年5月、合同会社を設立した。「何人目の前にいても緊張しない。甲子園で5万人の前でプレーしてハートは鍛えられた。いい思いをさせてもらったので、今後も人間性を問われている」。代表社員、児童発達管理責任者として、19年には2軒目の施設をオープンした。「実務も経営も。毎日クタクタですが充実してます」。子供たちの成長が何よりの楽しみだ。【斎藤直樹】

◆町田友潤(まちだ・ともひろ)1990年(平2)6月21日、静岡・沼津市生まれ。常葉学園菊川-早大中退-ヤマハ。高校時代は1年秋からレギュラーで甲子園に4度出場し、3年時は高校日本代表入り。テレビ番組「アメトーーク」「消えた天才」でも特集された。現役時代は171センチ、69キロ。右投げ右打ち。独身。

◆町田の甲子園での主な好守 08年夏の準決勝(浦添商)は投手の頭上を抜けたライナーをダイビング捕球。そのまま二塁にタッチして併殺完成。決勝(大阪桐蔭)は2回1死一、二塁で一、二塁間の打球をショートバウンドで押さえ、二塁へ体を反転させながらジャンピングスローで二塁封殺。次打者の二遊間へのゴロも巧みにさばき「セカンドに打ってしまえば望みはありません」の実況が出た。

<取材後記>

町田さんと電話だが約10年ぶりに話した。高校時代から甲子園でベンチを外れた選手を気遣うなど優しい性格だったので、障がいのある児童、生徒向けの療育施設という職業は天職のように感じた。「はしが使えるようになる、洋服が着られるようになる。すぐにうまくはできないけど、できた時はこっちもうれしい。野球の技術と一緒」と話した。最近では、シングルマザーや親のいない子供に野球用具を無償提供すべく社団法人「日本未来スポーツ振興協会」を立ち上げ、静岡支部長に就任した。同学年の元横浜高主将、小川健太氏らとタッグを組み、甲子園のネットワークを生かしている。