日刊スポーツのアマ野球担当経験記者が、懐かしい球児たちの現在の姿や当時を振り返る随時連載企画「あの球児は今」。今回は関西(岡山)時代に「岡山のダルビッシュ」とも呼ばれたダース・ローマシュ匡氏(32)です。日本ハム時代の先輩だったダルビッシュ有投手(34=パドレス)のマネジメント業務を行いながら、コロナ禍の中でもeスポーツという新たな分野の仕事に挑戦中です。【取材・構成・=磯綾乃】

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野球界を飛び出し、新たなフィールドを見つけた。ダース氏がeスポーツに興味を持ったきっかけも、ダルビッシュだった。「やるなら好きなことを仕事に出来たらなと思いました」。ダルビッシュは、YouTubeで自身のゲームプレイ動画を挙げるほどのゲーム好き。ダース氏の発案にも「いいやん、やってみたら」と快諾してくれたという。

大会運営は文字通りゼロからのスタートだった。まずは野球関連のコナミ「実況パワフルプロ野球」で開催することに決定すると、ゲームになじみがなかったダース氏も、仕事後に自宅で毎日プレイした。大会名は宝石の原石という意味の「GEMSTONE(ジェムストーン)」と命名。19年の第1回には32人のプレーヤーが集結し、同氏は解説者としても盛り上げた。

昨年10月に第2回を開催予定だったが、そこへコロナ禍が直撃。困難な時だからこそ、eスポーツの可能性を感じた。「同じ場所にいなくても、遠くの人でも参加出来るのが、オンラインの強さです」。オンラインでの対戦イベント開催を決めたが、ゲーム会社との打ち合わせも全てが画面越し。そんなところにも、直接会えない難しさがあった。それでも昨秋に開催された大会には100人超が参加。「ゲーム内での名前を見て『前も参加してくれた方だな』とか、顔と顔を合わせていないけど交流できる。時代は進んでいるなと思いました」。

ダルビッシュのマネジメント業務も、今は遠隔で行っている。このオフは渡米ができない中、用具会社や現地のスタッフと電話やLINEを使って連絡を取り合う。「裏で仕事をする立場からしたら、サイヤング賞を取ってほしい。フルシーズン、ケガがないことが一番ですが、本人の勢いもあるし、ケガがなければサイヤング賞も取れると思います」。何度も背中を押してくれた先輩を陰で応援しながら、その影響力を第2の人生の目標にしている。

eスポーツの大会に、自分を知って来てくれた人がいた。ダルビッシュと出会わなければ、今の自分はいないかもしれない。野球人生は確かに現在につながっている。関西時代は4季連続で甲子園に出場。その全てで劇的に敗れた。3年時のセンバツでは、早実・斎藤佑樹(日本ハム)と投げ合い、延長15回引き分け再試合の末に敗戦。最後の夏も9回2死から逆転サヨナラ負けを喫した。2年冬にはインピジメント症候群になり、ケガにも苦しんだ高校時代。それでも野球に育てられた思いがある。「自分で言うのも変ですが、気配りとかは自然に出来るようになったと思う。野球をやってなかったら出来なかったかもしれないし、そういうことからチャンスを生むとも思います」。縁と挑戦を大切に、これからも活躍の場を探していく。

<取材後記>

野球をやっていて良かったことの1つに、ダース氏は“同世代の絆”を挙げた。88年生まれの高校野球出身者を中心に「88年会」が結成されているという。きっかけは06年の夏の甲子園決勝で激闘を演じた、早実OBと駒大苫小牧OBだった。「高校時代あれだけ盛り上げたんだから、また集まって盛り上げよう!」と両校のOBが呼びかけ、現在は全国で約200人の大きな輪に。コロナ禍になる以前は、関西在住者だけでも集まることもあったという。「仕事で成功している人も多い。せっかくこうやって交流しているんだから、一緒に仕事で関われるように、頑張らないとなと思います」。甲子園を沸かせた同世代の存在は、大きな刺激となっている。

◆ダース・ローマシュ匡(だーす・ろーましゅたすく)1988年(昭63)12月15日、奈良県生駒市生まれ。関西では高校2年春から4季連続で甲子園出場。06年高校生ドラフト4巡目で日本ハムに入団し、11年に現役引退。兵庫・神戸のダルビッシュミュージアムの運営にも携わっていた。193センチ83キロ、右投げ右打ち。