明豊の川崎絢平監督(39)は、選手たちと並んで帽子を取り、深々と甲子園のグラウンドに頭を下げた。「やることは全部やったので悔いはまったくありません。もうこの大会は終わったなと。さあ夏に向けて、と考えています」と振り返った。

人をよく見る、選手をよく見る監督だ。昨夏の甲子園交流戦では、登録した20人全員を起用。今大会も毎試合打順を組み替え、3人の継投と臨機応変な手腕が目立つ。その下地にはスーパーの店員や、コンビニ店長という異例の経歴があった。

立命大卒業後は地元に戻り、04年から社会人クラブチームの和歌山箕島球友会に加入した。チェーン展開しているスーパー「マツゲン」に社員として入社。「視野を広く持つことの大切さ、固定概念にとらわれない柔軟な発想、自分を客観的に見たり、自分のチームを客観的に見たりできるのは、働いている間に身についた気がします」と振り返る。

野菜の担当部門に配属され、陳列などの仕事を朝6時から8時間。夕方から練習する日々だった。完全なオフは、月1日あるかないか。それでも仕事も、練習も手を抜かない。和歌山箕島球友会の西川忠宏監督(60)は当時「指導者になりたい」と川崎監督が話しているのを聞いた。「頭脳プレーができて、作戦面でもたけていた選手。仕事での評判もよかったです」と明かした。

現役引退後は、実家が海南市内で当時3店舗経営していたローソンの店長へ転身した。バイトのシフトを組み、発注をかける。08年からは母校のコーチも掛け持ちし、練習後の深夜から早朝まで店先に立つ激務だったが、県内NO・1クラスの売り上げを記録する敏腕店長だった。最も学んだのは、人心掌握術。急に休むアルバイト店員に苦労した。「頭ごなしに怒るだけでは働いてくれないし、どうやって気持ちよく働いてくれるか。クルーと信頼関係がないといいお店にならないので、人の心を考えながら、会話をする中で相手がどう思っているんだろうとか考えてやっていた。それは(今も)いかされている」と野球の指導につながる部分があった。海南市議会議長を務める父一樹さん(64)は「しっかり人として当たり前のことを当たり前にできるように、クルーを教育していた。発注も、いかに利益を生むにはどうしたらいいのか考えていました」と話した。

川崎監督が掲げるのは「人間力向上」。人として、日々の生活が野球にもつながっていく。苦労をしてきたからこそ、たどり着いた言葉だ。監督として初めてたどり着いた甲子園決勝。この負けも、糧になる。【保坂恭子】

◆川崎絢平(かわさき・じゅんぺい)1982年(昭57)2月12日生まれ、和歌山県海南市出身。生石ボーイズから智弁和歌山に進み、3年連続で夏の甲子園出場し、1年は優勝、3年は4強。立命大では全日本大学選手権に出場。和歌山箕島球友会では全日本クラブ選手権優勝、社会人選手権出場。現役時代は遊撃手。08年に母校コーチ。11年に明豊の部長に就任し、12年秋から監督。甲子園は15年夏に出場し、19年センバツ4強。家族は夫人と1男1女。趣味は読書。B型。