リベンジVだ! 沖縄大会決勝で、興南が沖縄尚学を下し、全国一番乗りで夏の甲子園切符を手にした。ノーシードから勝ち上がり、19年決勝で敗れた相手に雪辱。4年ぶり13度目の出場を決めた。沖縄の本土復帰50年の記念イヤーに旋風を狙う。

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勝利の瞬間、興南ナインは歓喜の輪を作らなかった。一瞬のガッツポーズと、つかの間の笑顔のみ。全国最速で4年ぶりの甲子園出場を決めたが、我喜屋(がきや)優監督(72)の「相手を敬いなさい」という言葉を守った。

3回に決勝の適時二塁打を放った仲程雄海(なかほど・おうか)内野手(2年)は、特別な思いで打席に立っていた。「先輩の思いも背負ってました」。小、中、高と全てオリックス宮城と同じ野球チーム。宮城は19年夏の決勝で、沖縄尚学に延長戦の末に敗れた。「リベンジの気持ちを持っていたので、打ててよかったです」。変化球を右中間に運び、先輩の雪辱を果たした。

興南は、10年に現コーチの島袋洋奨氏(29)を擁して甲子園春夏連覇。当時、仲程は保育園児だった。それでも沖縄県勢初の快挙には「保育園で全員で見てました。本当です。印象が強かったので」。県民のほぼ全員がテレビ中継に夢中。日中にもかかわらず、島に車が走っていない時間があったという。「今でも覚えています。素晴らしい先輩方ばかり。自分もそれに負けないくらい、いっぱい練習して頑張りたいです」。興南フィーバーを再び-。その挑戦権をつかんだ。

春季大会は部員のコロナ感染で出場を辞退。ノーシードで迎えた夏だった。1戦ごとに強さを増し、16日の準決勝では延長12回の死闘の末、未来沖縄に勝利。この日は横綱相撲で頂点に立った。今年は沖縄の本土復帰50周年の節目。我喜屋監督は「興南が全国を引っ張っていきたい」と、力強かった。【只松憲】

◆興南 1962年(昭37)に私立興南学園として創立。普通科のみで生徒数は1005人(女子375人)。野球部は62年創部で、部員数は119人(マネジャー1人)。甲子園は春4度、夏は13度目。優勝は春夏ともに10年の1度ずつ。主なOBに宮城大弥(オリックス)大城滉二(オリックス)島袋洋奨(ソフトバンク)仲田幸司(阪神)具志堅用高(ボクシング元世界王者)ら。所在地は沖縄県那覇市古島1の7の1。我喜屋優校長。

▽興南・禰覇(ねは)盛太郎外野手(3年=主将として甲子園出場に)「1年生大会の時から今日まで含め、自分たちの代は県内で負けなしでした。そのプレッシャーもありましたが、みんなハツラツとしたプレーで頑張ってくれました」

▽興南・生盛亜勇太(せいもり・あゆた)投手(3年=最速147キロのエース右腕が2番手で4回無失点)「去年の秋に腰痛で出られなくて、春はコロナ辞退だった。この夏だけにかけて練習してきたので、本当に勝ててよかったです」