悲願の優勝旗「白河の関越え」達成を記念し、日刊スポーツの東北支社、支局に駐在した歴代の高校野球担当記者がさまざまな思いを語る「白河の関越え 思いを馳せる」第4回は、86年宮城県大会を取材した荻島弘一記者です。

   ◇   ◇   ◇

「目標は甲子園に出ることではなく、甲子園で優勝することです。宮城に、東北に優勝旗を持ってきたいんですよ」。仙台育英の竹田利秋監督(81=現国学院大総監督)の思いを聞いたのは36年前、1986年(昭61)の夏だった。東京スポーツ部の駆け出し記者は「助っ人」として1カ月強、初めての高校野球取材で宮城県内を走り回っていた。

同僚記者に言われたのは「竹田さんだけはマークしておけ」。前年の夏、佐々木主浩投手で甲子園ベスト8に入った直後に東北高を退任した竹田監督は、9月に仙台育英の監督に就任していた。宮城の「2強」ともいわれるライバル校への「移籍」だったから、注目度も圧倒的に高かった。

聞こえてくるのは同監督への批判ばかり。「裏切り者」「恩をあだで返した」「金に目がくらんだ」…。まだまだ「終身雇用」が当たり前で、組織に対する帰属意識も高かった昭和の時代、風当たりの強さは今以上だった。もちろん、竹田監督の耳にも容赦なく届いていたはずだ。

東北高を強豪に育てた竹田監督には、県外の高校からの誘いもあった。もともと和歌山県出身で、東北地方には縁もない。当時の山本壮一郎・宮城県知事が県外流出阻止に動いたとはいうものの、宮城にこだわる理由もないように思えた。

大会終盤、おそるおそる聞いた。「こんなに言われてまで、どうして仙台育英の監督になったのですか」。若手記者の緊張をほぐすように、温和な表情を見せながら「宮城に、東北に」の言葉。熱い思いが伝わってきた。

仙台育英は県大会準決勝で東北高を下し、8回目の甲子園出場を決める。もっとも、全国の舞台では初戦(2回戦=大分・佐伯鶴城)で敗退。「大旗の白河越え」は見果てぬ夢にさえ思えた。それでも、3年後の89年には大越基投手を擁して宮城県勢初の決勝に進出。竹田監督は95年に仙台を離れたが、後を託された指導者たちの努力で宮城の、東北の悲願は成就した。

竹田監督の「白河越え」に対する熱い思いを聞きながらも、正直「無理だろう」と思っていた。しかし、その思いを持ち続ければ、いつか歴史は変わる。36年前、宮城で経験した熱い夏を思い出し、仙台育英の初優勝を映すテレビ画面が涙でかすんだ。【86年宮城大会担当、荻島弘一】