悲願の優勝旗「白河の関越え」達成を記念し、日刊スポーツの東北支社、支局に駐在した歴代の高校野球担当記者がさまざまな思いを語る「白河の関越え 思いを馳せる」第7回は、11~12年高校野球担当の木下淳記者です。

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生で見た。東京に帰任して10年になるが、歴史が動く瞬間は見逃せない。休みを取って、宮城県出身の家族を連れて、仙台育英の決勝を甲子園一塁側で観戦した。試合後は須江航監督の奥様、お子さんと記念撮影していただいた(笑い)。

担当した11~12年は、川上竜平(元ヤクルト)田村龍弘(ロッテ)北條史也(阪神)らで史上初の3季連続準優勝を遂げた光星学院の世代、花巻東・大谷翔平(エンゼルス)の夏春2度の聖地に密着したが、扉は重かった。6県のべ546校の涙が染み込んできた黒土の上で、宿願成就。近畿や関東に見せつけられる一方だったマウンド上の歓喜の山が、苦節108年目で東北勢へ。感慨深かった。

09年は菊池雄星(ブルージェイズ)の花巻東が春準V、夏4強。今や世界一の大谷でも、成長過程の負傷に泣き届かなかった。2年夏は同学年初の150キロを計測も、帝京に惜敗。3年春は大阪桐蔭に屈した。それでも5回無失点&藤浪晋太郎(阪神)からソロ本塁打の二刀流。約8カ月ぶりの復帰登板だったことで力尽きたが、春夏177度目の甲子園で初だった身長190センチ超&最速150キロ超の投げ合いに胸躍り、その先の初優勝を信じていた。

ただ、骨折した左座骨が完治していなかった。本人は隠したが、実は、大会1カ月前の検査では骨が完全にくっついていなかった。

同時期、決勝に3季連続で進んだ光星学院も忘れられない。11年3月11日の東日本大震災。その2日前から同校の沖縄合宿に密着していた。11日の帰青の機上で地震が発生し、那覇へ戻り、特例で直接センバツ入りしたチームに同行した。

その春こそ16強も、続く夏春夏が準優勝。もはや決勝の内容は割愛するが、打撃改革と、野球留学の成功例で東北を底上げした。1世紀かかった「劣等感の克服」が白河越えの理由に挙がる。光星もそうだった。

仲井宗基監督がコーチに就く前年92年は、県で未勝利の弱小校。グラウンドは雑草だらけでフェンスも照明もない。疲労骨折するまで鍛えた一方、県外路線も模索。「いい選手は八戸工大一に根こそぎ持っていかれた」。地元中学の正選手が工大一、控えが光星に行く時代。そこを県外生が「工大一? 知らん」と一蹴し、県内生の劣等感が解消されたことが原点だった。

95年に着任した金沢成奉総監督も「初めて甲子園に出た97年春のエースは大阪の遊撃手の3番手。そのクラスしか来てくれなかったし、それで勝てるほどレベルも低かった」と明かす。そこから育てて00年夏に4強。91年に東北福祉大で全日本大学選手権を初制覇し“白河越え”した2人の下に、坂本勇人(巨人)や大阪桐蔭からの誘いを断った田村ら一流素材が集った。

その光星と仙台育英が東北大会で高め合った。坂本擁した06年春の決勝は、光星が24-4。投手陣を整備した仙台育英が10年春に5-4で借りを返すと、そこで17三振を奪われた光星が今や常識の近距離打撃を始めた。11年秋の明治神宮大会で初優勝。12年夏まで3季連続の決勝につなげた。

翌13年と14年に東北勢は最多タイの5県が初戦を突破。今年も並んだ。決勝進出数も「20世紀の85年間で4度」が「21世紀の21年間で9度」と急増した。初の頂点は時間の問題だった。

1年3カ月の担当だったが、強豪から、被災3県の沿岸部や福島第1原発からの避難校まで取材させていただいた縁で、今も愛着ある6県の結果を1回戦から見ている。仙台育英がこじ開けた扉のすぐ奥に、仲井監督と小坂部長、花巻東の佐々木洋監督と流石裕之部長の顔が浮かんだ。先を越された悔しさを原動力に、次は県勢初優勝を遂げるはずだ。他校も続くことで東北は真の強豪地区になる。【11、12年担当=木下淳】