“泣き虫コーチ”は最後も涙だった。試合終了後、待機していた赤堀佳敬コーチ(31)がグラウンドに足を踏み入れると、目の前にアルプスにあいさつを済ませた選手たちがいた。「赤堀さん!」。1番に駆け寄って来たのは田中陽翔内野手(3年)だ。「本当にありがとうございました」。泣きながら抱き合った。「僕も涙が止まりませんでした…」。3月いっぱいで退任し磐田東(静岡)の監督に転任する。このセンバツが高崎健康福祉大高崎で最後の大会だった。

19年、盛岡大付(岩手)からコーチに就任した。当時のチームは機動力でゆさぶる「機動破壊」で有名だった。「盛岡大付は強打がウリ。僕が伝えられることはあるのかな、とすごく不安でした」。20年のコロナ禍には、選手に付き切りで打撃指導した。「タイミングと体のしなりでバットをボールのラインに入れることを徹底させました」。

昨秋、新基準のバットが導入されると「分厚く当てなさい」と指導。「軌道にバットを合わせライナーで飛ばす感覚です」。この試合、3回に先頭の斎藤は初球のカーブを右越え三塁打に。勝ち越しのチャンスを作った。斎藤は「後ろの手を押し込むイメージ。ボールを長く見てバットに接着させて乗せた。赤堀さんの教えが土壇場で出ました」と笑った。就任5年。機動破壊に強打をプラスし、日本一の強力打線を育てた。

選手たちと共に泣き、共に笑った5年間だった。寝食を共にし、練習はとことん付き合った。「実は8割は世間話(笑い)。それが楽しかった」と田中。誰よりも身近にいた、いいアニキ分だった。今大会、選手は全員、帽子のつばに「赤堀コーチのために」。赤堀コーチは「この仲間と日本一しかない」と、選手全員の名前を記した。選手66人とスタッフ11人の熱い思いが日本一を実現させた。「時代は変わっても、泥くさく魂を込めて“漢らしく”生きて欲しい」。赤堀コーチはそう話すと、再び涙をこぼした。【保坂淑子】