米国時間の4月15日、メジャーリーグの全試合で選手、監督、コーチが、背番号「42」のユニホーム姿でプレーしました。今や日本でも知られるようになりましたが、この日は「ジャッキー・ロビンソン・デー」。1947年4月15日、ブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)と契約したロビンソンが、黒人初のメジャーリーガーとして公式戦(開幕戦)に出場したことを記念し、04年から現在のように全選手が「42」を着けるようになりました。

日本人メジャーでは、カブスのダルビッシュ有、マリナーズ菊池雄星が、見慣れない「42」を背負って登板しましたが、ロビンソンの存在がなければ、彼らがメジャーのマウンドに立つことはなかったわけです。

今季のメジャーでは、開幕戦(3月28日)の時点で、ベンチ入り25人枠に登録された882人(負傷者リスト入り選手を含む)の中で、実に28・5%にあたる251人が、米国以外の出身選手でした。

出身国および地域は20カ国で、最多はドミニカ共和国の102人。以下、ベネズエラが68人、キューバが19人、プエルトリコの18人と中南米諸国が続いています。日本はイチローが引退したことで6人(ダルビッシュ、菊池、平野、田中、前田、大谷)。他のアジア勢は、韓国5人、台湾1人となっています。

第2次世界大戦が終了してわずか2年後の47年、当時の米国は人種差別が当然のことのように存在していました。映画館やレストランなど、公共施設はすべて白人と有色人種は別。ロビンソンがデビューする直前、他球団は猛烈な反対を唱え、ドジャース内にも一緒にプレーすることを拒否しようとする選手もいたそうです。

そんな困難な状況でも、ロビンソンは毅然(きぜん)とプレーを続け、同年に制定されたばかりの新人王を獲得。49年にはMVPに選出されるなど、一躍、スター選手として認められるようになりました。

ロビンソンの功績が今もなお語り継がれるのは、何も野球界の門戸を開いたというだけではありません。その後、アメリカンフットボール、バスケットなど他のスポーツ界でも黒人選手が次々と活躍するようになりました。今年のマスターズで劇的な復活を遂げたタイガー・ウッズが、ゴルフ界だけでなく、世界中から人気を集めているのも、72年前の「第1歩」があったからこそでしょう。

メジャーの球場の記者席には、米国人に加え、中南米、日本人記者を含め、各国のメディアが顔をそろえます。今でこそ当然のようになった環境に身を置きながら、社会を突き動かしたロビンソンの偉大さをあらためて再認識する1日が、この「ジャッキー・ロビンソン・デー」なのです。【四竈衛】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「四竈衛のメジャー徒然日記」)