「ヒットメーカー福留」への分岐点となった秘話がある。日刊スポーツでは、阪神福留孝介外野手(39)の少年時代を振り返る「日米通算2000本への源流」を3回にわたって掲載する。

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 遠く離れた鹿児島の大崎町で偉業達成を喜んでいる人がいた。新留(にいどめ)勝郎さん(71)。福留は小学3年の時に地元の「大崎ソフトボール少年団」に入団。必死にボールを追いかけた。その当時、監督を務めていたのが新留さんだった。

 新留さんは74年にチームを設立。もともと鹿児島はソフトボールが盛んな地域だったが、福留が入団した頃はピークの50人近い部員が在籍していた。そのなかでもすぐに目を引いたのが福留。新留さんは小学4年だった福留にある指示を出す。それは右打者から左打者への転向だ。

 「この子は才能があるなと思ってね。左にした方が絶対にいいと思った。右投手が多かったし、ソフトボールは塁間が狭い。1歩でも早い方がいいからね」

 そうは言っても、当時の新留監督は厳しかった。打席に立った福留には必ずバントのサインを出した。打てば必ずヒットになる。そう分かっていても、ぐっとこらえ、自己犠牲の精神をたたき込んだ。5年生でエースになり、6年時には全国大会に出場。チームは福留を中心に全国的な強豪に生まれ変わった。

 日米通算2000安打を達成した、25日の広島戦(マツダスタジアム)。グラウンドには、福留の後輩2人がいた。中継ぎ登板した阪神榎田と、代打で打席に立った広島松山。福留の背中を追いかけて「大崎ソフトボール少年団」に入団し、その後、プロ野球の扉を開いた。福留の「生みの親」ともいえる新留さんは「こんなうれしいことはない。すごく幸せなこと」と声をはずませた。【桝井聡】(つづく)