選手、監督として「TOYO」のユニホームを50年着続けた東洋大・高橋昭雄監督(69)が、東都大学リーグ春秋連覇を置きみやげに勇退した。歯に衣(きぬ)着せぬ物言いで人をひきつけた名物監督は、実は人工透析を行いながらラストイヤーを戦い抜いた。勇退の決意と、豪快な笑顔の裏で耐えた46年間に迫った。

 昨年の6月。春シーズンを3位で終え、長野で大好きなゴルフに興じた。しかし、体が鉛を背負ったようにだるく、動かなかった。

 高橋監督 詳しく検査したら腎臓の数値が悪くて。主治医から「まだ監督やってんの? このままじゃ死んじゃうよ」って。「人工透析をしなくてはならないかもよ」と。参ったよ。

 40歳前後で十二指腸潰瘍を患った。血圧の高さは腎臓機能の低下から来ていると言われた。30年ほどたち恐れていたことが起こった。

 約半年間、食事療法を行ったが内科的治療はかなわなかった。2月から、月、水、金曜に人工透析を行うことになった。東都大学リーグは2戦先勝で勝ち点を競う。雨で中止を挟めば4日間を要することもあり、秋は4回以上、通院スケジュールを変更した。高橋監督は「特に、秋はやりくりが大変だったかな」と春秋連覇の裏事情を語った。

 23歳の若さで監督に就任した。酒はたしなむ程度だが、付き合いは多かった。「若いころから宴席でトイレに行けなくて。失礼になると思ってためらった。今もそうだね」。周囲を気遣い中座を嫌った。また、当時は練習で水を飲むことを良しとしない時代。「そしたら、監督もガバガバと飲むわけにいかないよ」。時をへて、選手が水を飲むようになっても指揮官の習慣は変わらなかった。

 07年春からリーグ5連覇を達成した。全日本大学選手権と明治神宮大会を制し「大学4冠」も成し遂げた。しかし、12年秋に黄金期から一転、2部へ落ち大学に進退伺を出した。理事長に止められてとどまったが、後進に道を譲る頭は常にあった。「(中日)大野や(ロッテ)鈴木大地にも『社会人で5~6年やったら大学に戻って来ないか』と言った。でも、そういうのに限ってプロに行っちゃう」と苦笑いで振り返った。

 清水隆行氏(元巨人)らが在籍した時代には、シート打撃に交じって手本を見せた。「100でも200でも打ってみせた。それが生きがいだった」。しかし、ここ数年はバットが重く感じられた。人工透析の開始とほぼ同時期に、大学から17年で契約を終了する旨を言い渡された。「再々々雇用はないと。やめる時期は本当は自分で決めたかったが体のこともある」。葛藤と寂しさを抱えながら、春のリーグ戦を前に勇退を決めた。

 2度の手術を乗り越え、542勝の金字塔を打ち立てた。多くのプロを輩出し教え子は979人に上る。その多くが、高橋家の持つ梅林で取れる手作りの梅干しを食べ、夏場の厳しい練習を乗り越えた。OB会は後任に西部ガス前監督の杉本泰彦氏(58)を推薦。高橋監督は総監督になる予定だ。

 高橋監督 あっという間。最後に優勝で終われる監督なんてそういない。幸せ者です。

 神宮球場やグラウンドには常にOBが訪れる。高橋監督を取り囲む輪は、いつも笑いに包まれていた。人に愛され、人を気遣い、唇をかみしめながら戦った名将の46年は、紛れもなく東洋大野球部の歴史そのものだ。【和田美保】