野球界をもっと1つに-。日刊スポーツ評論家の三浦大輔氏(44)と、全日本野球協会の副会長で侍ジャパンの強化本部長を務める山中正竹氏(71)が対談した。三浦氏は評論活動を通して感じた疑問を素直にぶつけ、山中氏は、自らの経験からプロアマの区別は不要との思いを明かした。20年東京オリンピック(五輪)から先へ。未来へつなぐべき野球の力を語り合った。

 東京駅のビル群、小さな一角に全日本野球協会の事務所がある。壁には歴代の日本代表ユニホームが隙間なく並んでいる。歴史が詰まった空間に三浦は足を運んだ。山中は「やぁ。大ちゃん」と笑顔で迎えた。2人は03年から8年間、ベイスターズの選手とフロントマンの間柄で、ともに戦った縁があった。

 横浜一筋の現役を終え2年目を迎えた三浦。25年もの時を過ごしたプロの現場を離れ、さまざまな角度から野球を学ぼうと考えた。高校野球の県大会に甲子園大会。メジャー、マイナーの試合。できる限り足を運ぶと決めた。グラウンド外から初めての世界を見聞きする中で素朴な疑問がわいてきて、山中に対談を申し入れた。

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 三浦 去年は母校の高田商が甲子園に出ました。今年は、ベイスターズでお世話になった三浦正行さんが監督をやられている延岡学園の試合を見に、甲子園へ行きました。でも、どこまで行っていいものなのか…あいさつもなかなかできず、距離を感じました。

 山中 プロとアマ。そこに溝というか壁があるのは、本来おかしい。大ちゃんが息子さんとキャッチボールできないのは寂しい話。「アマチュア」という言葉は、1974年(昭49)にオリンピック憲章から削除されている。死語なんです。今はすべての競技がU23、U15…と年齢で区別している。プロ野球選手であっても、学生であってもU23。残念ながらこの感覚、認識が、日本人の中にはまだない。

 三浦 先輩方の地道な努力があって、シンポジウムとかができるようになって、許可をもらえば母校で自主トレができるようになって。指導者の資格回復ができて。昔と比べてだいぶ進んできていると思いますが、もっともっと、まだまだできることがあると思います。

 山中 それは、大ちゃんの中に「プロアマ問題」という意識があるのではないか。国際大会では横、つまり年齢で分けているのに、縦で分けてしまっているのでは。日本の野球は歴史的に、いろいろな編成の中で出来上がっている。それぞれが独立性を認め合っていて、組織が非常に複雑になっている。でも、野球はひとつでしょう。

 「プロアマ」。言葉にすると簡単でも、背景を理解しなくては溝や壁を取り払うことはできない。山中が説明した。

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 歴史的にはオリンピック、クーベルタン(※1)のところから。「オリンピックはアマチュアの祭典だ」と。18世紀後半からの産業革命で地位を得たいわゆるブルジョアが、労働者階級を排除するための差別思想だったじゃないか、と。自分たちには地位があって、時間もあって、スポーツを楽しんでいる。アマチュアに限定しようとした。

 日本人は、アマチュアという概念を実直に守った。特に我々の世代は「アマチュアは正しい、聖なるもの。プロは非なる、けしからんもの」とたたきこまれ、染み付いた思想としてずっとあった。

 プロ野球がスタートした当時、プロ第1号の契約をした三原脩さんは、早大のOB会を除名された。同じ理由で、水原茂さんも慶大のOB会を除名されている。今は復帰しているけど「野球を職業にしてはけしからん」という、職業差別があった。川上哲治さんがジャイアンツ入りするとき、身を隠すように熊本から上京したとか。柳川事件とか門岡事件(※2)はプロアマ問題として大騒ぎするが、もっと大きな問題だと思う。

 世界的にアマチュアが礼賛されてきた歴史が、ずっとあって。「そうじゃない。労働者階級の差別思想じゃないか。最も優秀な人が競い合うべきだ」となって、ようやく74年のオリンピック憲章から「アマチュア」が削除された。全日本野球協会の定款には「アマチュアの学生、社会人を代表する」と書いてある。「『アマチュア』という言葉を、他に変えられないか」と言ったんだけど。適切な言葉がまだ見つかっていない。歴史は重要であり、尊重しなくてはいけない。だからといって、いつまでもとは…。

 三浦が高校野球観戦で抱いていた「遠慮」に似た感覚。根っこには、現在のプロアマの関係が逆転しているような差別の思想があった。山中は「アマチュア」に代わる言葉を探そうとしている-。じっと耳を傾けていた三浦が尋ねた。

 三浦 指導資格を回復するための研修(※3)を受けようと思いましたが、球団とのスペシャルアドバイザー契約があり、受けられないと。1度ユニホームを着ると、また資格がなくなってしまうのも、何でかなって。

 山中 大ちゃんのように、球団と何かの契約でつながっている。稲葉(篤紀=侍ジャパン監督、日本ハムのスポーツ・コミュニティー・オフィサー)もそうかな。あまり知られていないことだけど。直接ルール作りに関わっていないけど、そこにわずかな歯止めがあるのかな。受けられるようになれば、いいんじゃないかなと思う。今の時代、子どもに将来のやりたい仕事を聞けば「プロ野球選手!」と答える。なりたい自分に向かってみんながサポートしていくのが、あるべき指導の姿。

 山中は、指導資格回復の講師を5年間務めた。

 山中 「回復」という言葉も、個人的にはあまり使いたくない。「プロ野球選手とは、子どもたちからしたら夢。すごい選手なんです」と。高いレベルを持った人が、知識を高校生に伝える。素晴らしいこと、正確に伝えてくださいと。ただ、資格を持った人すべてが、入っていける世界ではない。課外活動の一環であり、教育性や人間形成、大きな価値観を持っている人もいる。せっかくできた制度に勝てるようなプロ野球経験者であって欲しい。

 三浦 今が完成型じゃないと思うんです。これからも、どんどん変わっていかなければいけないと思います。もちろん、メジャーにあこがれる人もいるけど、まずは日本のプロ野球にあこがれを持って欲しいじゃないですか。U23では、学生とプロが一緒に練習して、プロのコーチから指導を仰ぐ。「当たり前になればいいな」と。

 山中 それが当たり前にならないといけない。評論家として、堂々と訴えて、書いていけばいい。

 法大の大エースだった山中は、東京6大学通算48勝の記録を保持している。長く横浜のエースに君臨した三浦は、プロ通算172勝を挙げた。野球が持つ魅力にほれ込み、未来へつなげたいと強く願う。2人に共通する目標、夢でもある。

 三浦 自分は引退してから、近所のお父さんたちの草野球に入れてもらいました。50、60歳の方でも必死に、楽しそうに野球をやる。原点だな、と。こんなに日本人って野球が好きなんだと。打つ、守るだけじゃない。人生じゃないけど、ミスをしても誰かがカバーして助け合う。1人じゃ勝てない。野球に関わる人間として、本当に素晴らしいものだと伝えていきたい。

 山中 世界で競うレベルのアスリートは、100分の1秒を争っている。すごいことを考えている。150キロのボールを、ちょっとこっちに曲げる。そのボールを見極めて、さらに速いスイングをして、捉える。それは打つ、投げるの技術だけでは備わらない。たゆまぬ鍛錬や考える力。仲間や相手、審判。互いを認め、尊重しあうスポーツマンシップの本質。プロアマの問題みたいな歴史的なこと。さまざまな要因が積み重なって、その瞬間がある。トップクラスの人は、大体みんな自覚している。

 日本が誇る野球を表現する大舞台が目前にある。20年の東京五輪。

 山中 金メダルを取らないといけないが、次のパリ五輪、ロス五輪にどうつなげるか。このチャンスを、野球界がどう生かしていくか。世界の視点で野球、スポーツを見るようになれば「プロとかアマとか、何だあれ。言っている場合じゃないな」となる。個人的には、プロ野球はいつも輝いていなければいけないと思う。子どもたちがあこがれ、指導者の質が上がって技術が上がり、プロに送り届ける。その人たちがまた、物心両面で子どもたちに還元していく。そんな循環を考えないといけない。

 三浦 東京で野球・ソフト競技が復活するが、パリ五輪、ロス五輪と続けていかないといけない。「日本の野球」が一丸となって発展しなくてはいけないと思います。(敬称略)【取材=宮下敬至、和田美保】

 ◆山中正竹(やまなか・まさたけ)1947年(昭22)4月24日、大分県生まれ。佐伯鶴城-法大。通算48勝は東京6大学の最多勝記録。住友金属では新日鉄広畑の補強選手で優勝。住友金属監督として都市対抗、日本選手権を制覇。92年バルセロナ五輪で監督を務め、銅メダル獲得。法大監督では優勝7回。03年から10年まで、横浜ベイスターズ(現DeNA)専務取締役。16年、野球殿堂入り。現在は全日本野球協会副会長、侍ジャパン強化本部長など兼務。左投げ左打ち。

 ◆三浦大輔(みうら・だいすけ)1973年(昭48)12月25日、奈良県生まれ。高田商から91年ドラフト6位で横浜大洋(現DeNA)入団。97年10勝3敗、勝率7割6分9厘でセ最高勝率をマークした。05年、最優秀防御率と最多奪三振の両タイトルを獲得。15年にプロ野球記録に並ぶ23年連続勝利を達成。翌16年には投手として24年連続安打を放ち、ギネスブック世界記録に認定された。同年引退。172勝183敗。防御率3・58。183センチ、88キロ。

 (※1)ピエール・ド・クーベルタン男爵。1863年1月1日、フランス生まれ。スポーツは平和、教育に大きく寄与すると確信し「勝つことでなく、参加することに意義がある」の理念を浸透させ、近代オリンピックの父と呼ばれた。五輪マークの考案者でもある。第2代国際オリンピック委員会会長。

 (※2)「柳川事件」は、一般的にプロとアマが断絶した歴史のきっかけといわれる。61年に、プロ側が前年まで社会人と締結していたプロ退団者の受け入れ人数などについての協約の更新を拒否。無協約状態になった直後、中日が柳川福三外野手(日本生命)をシーズン中に引き抜いた。プロとの断絶を表明した社会人に学生野球側も同調。高校野球も翌62年からプロ野球OBの指導者受け入れやプロ野球関係者との接触を禁じた。同年の「門岡事件」は、高田(大分)のエース門岡信行投手が初戦敗退した甲子園からの帰途で中日への入団を表明。甲子園の大会期間中に、退部届提出前のプロ側との事前交渉も表面化した。

 (※3)プロ野球経験者がプロ、アマ双方の研修を受ければ、高校、大学での指導資格を回復できるもので13年から始まった。原則、プロ側を1日、アマチュア側の研修を2日受講した後、適性審査を経て資格回復が認められる。