元大洋(現DeNA)選手で、横浜ベイスターズの初代監督、のちロッテでも指揮を執った近藤昭仁氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため神奈川県内の病院で死去した。80歳だった。数年前にパーキンソン病と診断され、自宅などで闘病生活を送っていた。先月、誤嚥(ごえん)性肺炎で入院。最後は家族にみとられ、眠るように逝った。

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18連敗で「敗軍の将」とレッテルを貼られたが、根は勝ち気な人だった。3年契約で迎えられたロッテでは、1年目(97年)から最下位。消化試合となった千葉マリンでの試合後会見で、ベテラン記者と怒鳴り合いになった。当時59歳。1度監督室に戻ったが再び現れて、10センチ以上も背の高い同窓の年長者を見上げて第2ラウンドを始めた。あまりのけんまくに、20代の若輩者が多かった各社担当は傍観するだけだった。

そして2年目の98年は、6月から27日間も負け続けた。さすがの昭さんも心が折れ、不眠症で睡眠薬に頼った。「七夕の悲劇」で有名な17連敗では、神戸グリーンスタジアムの長い階段を4重、5重もの取材陣に取り囲まれ、「まぶしい!」と興奮して払いのけた手がテレビクルーを押し倒した。18連敗では最後、「ウワーッ!」と叫んでバスまで走った。翌日、連敗を脱すると「これから20連勝するよ」と勝ち気な顔に戻っていた。期間は日本が初出場したサッカーW杯と重なり、紙面の露出は控えめだったが、記者人生で最も忘れられない出来事だった。

直後に解任報道も出たが、最終戦まで指揮をまっとうした。ホーム最終戦はダブルヘッダー。第2試合のベンチに向かう廊下で、球団幹部に呼び止められて監督室に戻った。偶然見ていたが、解任通告とは気付けなかった。翌日の報道で知り、5000円の花束を持って自宅を訪ねたが不在。解任で花束とは不謹慎な話だが、初のプロ野球担当として鍛えてもらった感謝を伝え、夫人に快く受け取ってもらった数時間後、留守電に「ありがとう!」と昭さんの大声が入っていた。

喜怒哀楽がストレートで、どこか憎めなかった。同通告から5日後の退任会見では、「次は弱いチームじゃなくて、強いチームでね」といつもの勝ち気な弁で、監督再登板に意欲。武士の情けか同コメントを報じないメディアが大半で、ファンの物議も醸したが、花束の効果? か小言はなかった。14年12月に佐々木主浩氏(日刊スポーツ評論家)の殿堂入りパーティーでお会いしたのが最後。本人の名誉のために触れるが、18連敗した98年の61勝、得失点差プラス、チーム打率1位とも最下位ではリーグ史上初。後日再会したときに、「最強の最下位」の称号にまんざらでもなさそうだった。優勝した西武とは9・5ゲーム差。18連敗がなかったらもしかして…、とも思う。合掌。【97~98年ロッテ担当=東北総局次長・中島正好】