日刊スポーツ「平成の顔」は、ヤンキースや巨人などで活躍した松井秀喜氏(44)だった。平成31年間で1万1000回以上に上る日刊スポーツ1面(東京最終版)の見出しを、徹底的に手作業で集計。311回の松井氏が、長嶋茂雄氏(83)イチロー氏(45)らを抑え、ランキング1位だった。「1面男」松井氏は驚きながらも、さらなる野球人気の向上を願った。

■長嶋茂雄、イチロー抑える

平成の終わりを目前にした晩春のニューヨーク。日刊スポーツの1面を飾った最多登場人物トリビアに、松井氏は即答した。「そりゃあ、長嶋茂雄さんでしょう」。正解は松井氏自身だった。「ウソでしょう。それはありがたいですし、すごく感謝したいですね。報知新聞ならともかく、日刊スポーツでそんなにも取り上げていただいたとは」。

松井氏が初めて本紙1面(東京版)に登場したのは、1992年(平4)4月2日。星稜高3年時のセンバツで本塁打を放った翌日だった。今や代名詞となった「ゴジラ」のニックネームを付けたのも、日刊スポーツだった。「最初はオイ、と思いましたけど、今では皆さんに親しまれて良かったと思います」。その年のドラフトで長嶋巨人に指名された後は、連日のように1面で取り上げられた。

松井氏がプロデビューした93年、Jリーグがスタートした。野球人気低迷の危機感を払拭(ふっしょく)するかのように、昭和の球界を背負った長嶋氏の復帰、松井氏の入団で、球界は活気を取り戻した。メディアを大切にする長嶋氏の背中を見て育った松井氏は、結果を問わず、毎日メディアに対応した。練習に遅刻しただけで1面で騒がれた。「遅刻で1面ですからね。いい時代というか、それだけ野球が話題の中心だったということでしょうかね」。

今やメジャー挑戦は選手の目標となったが、平成初期は夢だった。その転機が95年だった。「最初の1歩は野茂さんから。野茂さんの行動がなければ、まったく違ったものになったと思います」。日米間の距離が縮まり、球界の潮流も激変した。

ヤンキースへ移籍後も、松井氏は活躍するたびに大きく報じられた。「日本も米国も、野球の人気がもっと上がればいいですね。常にお客さんがいっぱいで、常に野球がトピックとしてあがってくれたらいいなと思います」。平成の球界を支えた松井氏は、令和の野球界にどう携わっていくのだろうか。【四竈衛】

◆中日松坂大輔投手(5位)「取り上げてもらって大変ありがたいです」