日本球界で通算100勝を挙げ、60年代に阪神のエース投手として活躍したジーン・バッキー氏が14日(日本時間15日)、出血性脳卒中のため米ルイジアナ州の病院で亡くなった。82歳だった。

64年には29勝を挙げて優勝に貢献し、外国人初の沢村賞を受賞。球史に大きな足跡を刻んだ名助っ人が、天国へと旅立った。

バッキー氏は、5人の子供や多くの親族にみとられ、静かに息を引き取った。今月に入って胃の不調で入院し、10日に右総腸骨動脈の動脈瘤(りゅう)の手術を受けた。術後、出血性脳卒中を発症。脳の出血が多く、施術ができない状態となり、徐々に体の機能が失われていった。本来なら24時間も持たないほどの重症だったが、ここから4日間も生き続けた。野球で鍛えた強靱(きょうじん)な体力に、担当した医師たちも驚いていたという。

近年は高血圧に悩まされ、時折倒れることもあった。また、日本球界時代に椎間板ヘルニアの手術を受けており、背中の痛みにも見舞われていた。だが愛した日本球界、とりわけ阪神への愛情は深く、ネットで古巣の動向をチェック。体調不良を押しての再来日に、意欲を持ち続けてきた。

阪神、そして球界に歴史を刻んだレジェンドだった。米マイナーリーグでプレーしていたが、62年シーズン中に解雇され日本に新天地を求めた。来日して阪神の入団テストを受け、合格。同年は0勝ながら、陽気さと真面目な性格を買われて残留した。63年に8勝し頭角を現すと、3年目の64年に急成長。29勝を挙げ最多勝、防御率1位(1・89)、そして外国人では初の沢村賞を獲得するなど、球史に残る名助っ人となった。65年6月28日巨人戦のノーヒットノーランもまた、外国人初の快挙だった。68年8月27日広島戦では、日本通算100勝を成し遂げた。

フランス系移民の子として、米ルイジアナ州に生まれた。名字は正しくは「バッケェ」という発音に近いが、阪神入団の際「何だか化け物のようだ」と、バッキーとして登録された。遠征先では浴衣に身を包み、旅館でナインと雑魚寝。甲子園近くの文化住宅で畳の生活を送った。68年9月18日、甲子園での巨人戦で王貞治への内角球から大乱闘に発展。右手親指を骨折した。69年には近鉄に移籍したが0勝に終わり、そのまま引退した。

帰国後は小学校教師へ異色の転身。そのかたわら「ハンシンタイガースノオカネ」で広大な牧場を経営した。日本をこよなく愛し「吉田(義男)さん、小山(正明)さん、杉下(茂)さんに会いたい」と願い続けた。昨年11月発足した日本プロ野球外国人OB選手会(JRFPA)名誉会長に就任するなど、元助っ人たちのリーダー的存在でもあった。16年広島ジョンソンが外国人2人目の沢村賞となった際には大喜び。引退を決めた阪神メッセンジャーが、球団助っ人2人目の100勝を目前としていたことには「私から50年以上たっている。早く達成してほしい」と気にかけていた。誰よりも阪神を、そして日本を愛した伝説の助っ人に、人生のゲームセットが訪れた。

◆ジーン・バッキー 1937年8月12日生まれ。米国ルイジアナ州ラファイエット出身。サウスウエスト大から3Aを経て62年阪神にテスト入団。64年に最多勝と防御率の2冠を獲得、沢村賞なども受賞。69年は近鉄に移籍。実働8年。251試合に登板して100勝80敗、防御率2・34。現役当時は191センチ、91キロ。右投げ右打ち。

▽ソフトバンク王球団会長 優勝争いでジャイアンツの前に立ちはだかった阪神の強力なエースの1人でした。コントロールもよく変化球も多彩で、大変打ちにくい投手でした。謹んでご冥福をお祈りします。

▽広瀬叔功氏(83=日刊スポーツ評論家) (65年)オールスターなどで対戦している。長い腕を使って、キレのいいボールを投げてくる投手だった。同年代の選手が亡くなるのは寂しい。ご冥福をお祈りします。