特集「復刻! パ・リーグ伝説」は、かつて近鉄でエースとして活躍した阿波野秀幸氏(55=中日投手コーチ)の登場です。

1989年(平元)に常勝西武を下してリーグ優勝に導いたトレンディー左腕。黄金期のレオ軍団に立ち向かい、伝説の「10・19」でも熱投するなど、劇的ドラマを演じた熱パの主役だった。【取材・構成=編集委員・寺尾博和】

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昭和から平成に変わった1989年、近鉄が9年ぶり、3度目のリーグ優勝を遂げた。その立役者が3年目のエース阿波野だった。

阿波野 ぼくがいたパ・リーグは本当に西武が強かった時代です。勝ってても負けるんじゃないかという恐怖感があった。そのチームに勝って優勝したのはものすごい達成感でした。

85年から4連覇の西武は近鉄に優勝をさらわれた翌90年からも5年連続V。89年が近鉄でなければ、西武は10連覇を遂げた可能性が高い。19勝8敗の左腕が西武王国の牙城を崩した。

阿波野 西武と投げ合うのが渡辺久信、郭泰源か、工藤(公康)さん、たまに東尾(修)さん…。ベンチ裏で羽田さんが『きょうもうちは打てんぞ』と言うんです。だから気持ちとしては1点もやれないです。

東都リーグで通算32勝を記録。在京志望だった男の運命を分けたのは86年11月20日のドラフト会議だ。1位指名で、享栄・近藤真一に5球団、阿波野に巨人、大洋(現DeNA)、近鉄の3球団が重複。中日星野仙一が相思相愛の近藤を引き当てる。

阿波野 星野さんが近藤を引いたのは、一つのドラマを見せつけられた感じでした。5分の1が当たったから(巨人か大洋の)在京は3分の2だから決まりといった雰囲気に包まれた。

阿波野の交渉権を得たのは、意中でない大阪が本拠の近鉄だった。

阿波野 これも運命かと思いました。近鉄から指名を受けたときは、たぶんぼうぜんとしたと思います。少なくともぼくのところには事前に指名あいさつがなかった。河西(俊雄)スカウトが担当で、それが“河西流”だったようです。

1週間後、それまで憤っていた総監督の矢野祐弘からプロ入りを勧められる。

阿波野 亜大には、プロにいって2軍なら社会人に行けという考えがあった。『旬か、旬でないか』といえば今が旬で、すぐに勝負できるからプロに行きなさいと言われた。ファンには、なかなかプロ入り表明しないし、近鉄に行きたくないんだという絵に見えたでしょうね。色白で、いかつい感じもなく、やせっぽっち、これがドラフト1位か? と見られていたと思います。

パ・リーグは、門田、秋山、清原、石嶺、ブーマーら強打者そろい。なじみのない関西で4年連続2桁勝利をあげ、自らの力で猛牛ファンを振り向かせた。1年目の87年4月25日南海戦(大阪)、門田博光に左中間席に運ばれた一撃は鮮明に覚えている。プロ2本目の被弾だった。

阿波野 門田さんにあそこにライナーで本塁打を打たれたのは衝撃でした。大学時代でも左打者にポール際に打たれたことはありましたが左中間はない。パ・リーグには威圧感のある実力者が多かったですね。

打倒西武はエースの宿命。逆に相手は阿波野の絶妙なけん制にクレームをつけ、つぶしにきた。90年4月22日の直接対決、一塁塁審五十嵐洋一に「ボーク」をとられたのが契機。監督森祇晶、三塁コーチ伊原春樹らが執拗(しつよう)に指摘してきた。

阿波野 西武にとってぼくは邪魔な存在だったと思います。普通のけん制は一塁を見ないと投げられない。大学時代に半分ホームを見ながら、一塁に投げる角度を体に覚えさせた。開幕前に審判に確認したのにボークをとられたのは不本意でした。ぼくを気持ち良く投げさせないための戦略、球団と球団の戦い…。ぼくはそれに対応できなかった。

ボークのルールが厳格化されて下降線を描くが、巨人、横浜と渡り歩いたのも運命だろう。トレンディーエースといわれ、伝説の「10・19」を演じるなど、球史に残った。

阿波野 大阪にきて勝負してよかったと思っています。優勝も、昭和の名シーンとして語り継がれる一戦もあった。ぼくの財産です。(敬称略)

▽88年10月19日のロッテ-近鉄のダブルヘッダー(川崎)は、先に全日程を終了していた西武に対し、近鉄は連勝すれば優勝だった。1戦目は9回に代打梨田が決勝打を放ったその裏無死一塁、阿波野が好救援して4-3で勝利。2戦目は1点リードした直後の8回からリリーフしたが、高沢に同点ソロを浴びた。4-4で引き分けてV逸。名勝負として語り継がれる。

◆阿波野秀幸(あわの・ひでゆき)1964年(昭39)7月28日生まれ、神奈川県出身。桜丘-亜大。86年ドラフトでは近鉄のほか、巨人、大洋(後に横浜、現DeNA)と3球団の指名を受け、近鉄入り。1年目15勝を挙げ新人王。89年には19勝で最多勝を獲得し、優勝の立役者となった。95年巨人へ、98年横浜へそれぞれトレード移籍し、ドラフトで入札を受けた3球団すべてに在籍。89年近鉄、96年巨人、98年横浜と全球団で優勝を経験し、各年とも日本シリーズ登板を果たした。現役当時は178センチ、75キロ。左投げ左打ち。

○…阿波野が入寮した日は雪がちらついていた。新幹線を新大阪駅に出迎えたのは、スカウトの河西さん、NHKのディレクターとぼくの3人だけだった。“大近鉄”をバックにする球団、ドラフト1位の大物新人だから、タクシーで藤井寺市にあった「球友寮」に乗り付けるものと思っていた。しかし、ベテランの河西さんは「よぉ、来てくれたな。早く関西に慣れてほしいんや」と、地下鉄と近鉄電車を乗り継いで移動したのは驚いた。藤井寺駅に着いて、そのまま寮に向かうのかと思いきや、駅前のうどん屋に入った。河西さんは「大阪はうどんがうまいんやで」と説くのだった。関西になじみがなかったから仕方がなかった。阿波野は薄味のうどんにしょうゆをかけて腹に入れた。プロ入り後の活躍が、関西風味に慣れたことを証明していた。