日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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太平洋の黒潮を望む空は秋晴れだった。阪神秋季キャンプ地の高知県安芸市に参上。視線の先で臨時コーチの山本昌さんが精力的に指導する光景に“ある人”の姿をだぶらせた。

本人が「生涯の恩人」という米大リーグ・ドジャースでオーナー補佐だったアイク生原(本名・生原昭宏)氏だ。中日入団から鳴かず飛ばずだった左腕は、プロ5年目で米国に野球留学した先でその人に出会う。

一流にはい上がった経緯について、スカイマーク社・佐山展生会長と対談した「生涯現役論」(新潮新書)で語っている。会長から手元に届いた著書に「チャンスをつかめる人と、つかめない人の差は?」と問い掛ける場面がある。

山本昌さんは「今がチャンスと気付く人はまずいない。でもぼくはほとんどのことに手を抜かなかった」と打ち明ける。本人が「今年で最後」という覚悟だった異国でアイク生原氏という指導者と巡り合って覚醒する。

アイク生原氏は亜大監督を経て渡米し、ドジャース球団職員に就き、マイナーの用具係からオーナー補佐にまで上り詰める。“日米の懸け橋”として、後に実現する野茂英雄氏のドジャース移籍も、その存在と無縁ではなかった。

1988年に星野仙一監督だった中日から現地に派遣された山本昌さんは、アイク生原氏の指導を受けながら、名投手フェルナンド・バレンズエラの得意球スクリューボールを習得する。それを武器に一気にのし上がっていくのだった。

アイク生原氏は92年10月26日に天国に旅立った。ある年、わたしは生原夫人の喜美子さんとロサンゼルス郊外にある墓を参った。ドジャース・オーナーだったオマリー家代々の隣に眠るのは、いかにアイク生原氏が信頼を得ていたかを物語った。

また、生原夫妻が行きつけのレストランで、2人の出会いから、日本球界に対する愛情までを、たっぷりとうかがった。人との出会いが契機になって開花するのは、鉄腕がたどった人生が証明している。さて来春、ここからだれが花を咲かせるだろうか。

◆アイク生原(いくはら)本名・生原昭宏(いくはら・あきひろ)。1937年(昭12)1月20日生まれ、福岡県出身。早大卒。単身渡米し、ドジャース入り。後にオーナーに就任するピーター・オマリー氏とは長年行動をともにした。巨人や中日の米ベロビーチ・キャンプの実現、日米大学野球開催など日米野球交流の中心人物として活躍。92年10月26日、55歳で死去。