ホークス九州移転30周年の節目となった2019年を、ソフトバンクは日本一で飾った。名門ホークスをダイエーが南海電鉄から譲り受け、本拠地を大阪から福岡に移して30年。西鉄ライオンズをしのぶファンの多かった九州を、少しずつ少しずつホークスの色に染めた。移転当時にエースとして君臨したのは、山内孝徳氏(63=野球解説者)。衝撃の球団身売りから、ダイエーホークス本拠地初勝利を刻んだエースの思いを2回にわたってお届けする。【取材・構成=堀まどか】

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1988年、夏の盛りだった。衝撃のニュースを一般紙とその系列スポーツ紙が1面で報じた。「南海ホークス身売り」-。記事の内容は、関西新空港開業を控え、本拠地・大阪球場を含む難波再開発計画に取り組む必要に迫られた南海電鉄が、ついに球団を手放す決断を下したというもの。譲渡先に挙がったのは、大手スーパーのダイエーだった。

山内 何? ダイエー!? ってところから俺たちは始まった。あの頃、ビール会社が球団を買ううわさは出ていたけど、スーパーが何で球団? って。日がたつにつれて、結構金を持っていて全国展開してるよって話から、これは本格的だという話になっていった。

エース杉浦忠の59年日本シリーズ4連投など球史を彩った名門も、そのころは11年連続Bクラスに低迷。資金難による弱体化とみなされ、毎年のように身売りのうわさは流れた。だが88年の一報は、うわさの域を超えていた。当初は完全否定した南海電鉄も9月14日、ダイエーへの譲渡を発表する。親会社の決断を聞いた山内は、怒り狂った。

山内 俺が骨をうずめるつもりで入ったホークスが身売り!? ショックではらわたが煮えました。

鎮西高、電電九州、プロへと道は続いたが、南海入団までには曲折があった。79年ドラフト。事前に南海は山内に2位の指名予定を伝えながら、実際は3位。浪商(現大体大浪商)のドカベンこと香川伸行が先に指名された。「約束を守らん球団なんかに行くか」と山内は怒った。入団を保留し、翌年の都市対抗、日本選手権に出場。「ドラフトまで待つなら上位で指名する」と水面下で名乗りをあげた球団もあったが、南海は名捕手、野村克也の背番号だった19を山内に提示した。

山内 そこまで言うなら行きますって返事した。心の中では、プロに行くならホークス以外は行かんと決めとったから。やっぱり南海が1番に声かけてくれたから。

心を決めた以上、南海のために一心不乱に投げ抜いた。低迷するチームで、入団2年目から7年連続で2桁勝利を挙げた。

山内 ただ勝つことしか考えてない。先発を任された試合を完投する、完投しないと意味がないという思いで1年1年の野球人生をつぎ込んで8年が過ぎた。8年が過ぎたら身売りの話が出た。そこで戦うんだと決めて骨をうずめる覚悟で入った球団が身売りする。本当にショックやった。

それでも少しずつ、山内は気持ちに折り合いをつけた。球団の移転先が、故郷・熊本の隣県・福岡というのが救いになった。

山内 九州が地元になる。だったらもう仕方ない。よし、やってやろう! と割り切ったときだった。

ある新聞記者が山内に声をかけた。「よかったですね。ジャイアンツに行くんですね」と、水面下で巨人の看板選手とのトレードが進んでいると告げた。「何やと!?」。また山内の血が怒りで煮えたぎった。

山内 俺はホークスに命をかけて入った。その俺をいらんと言うのかと。

受話器を握り、怒りに震える指先で押した番号は大阪・難波の南海球団事務所。不在の球団代表に代わって電話に出た編成担当に、山内は言い放った。「俺を出すなら、パ・リーグに出してくれ」と。

山内 ホークスは俺にとってはわが家。わが家が俺を裏切るなら、俺は闘争心を持って向かって行きますよと。俺の投球はわかってるでしょと伝えました。

持ち前の正確無比な制球力。その力を持って、ホークス打者を文字通り倒しに行くと宣戦布告したのだ。

1週間もしないうちに、山内にトレードのうわさを伝えた新聞記者が「終わったみたいですね」と言ってきた。山内が信頼する当時の監督、杉浦忠は「そんな話は知らんし、タカは出さんよ」と言いきった。山内が引退後に耳にしたのは、巨人の監督、王貞治も中日の指揮官、星野仙一も山内をほしがっていた。だが、山内の唯一無二のわが家は南海だった。

1988年10月15日、大阪球場に近鉄を迎えての最終戦。3万2000人が涙ながらに投げ入れる紙テープがたなびく中、杉浦は立大時代の盟友、長嶋茂雄の名文句を引きあいに「長嶋君の言葉ではありませんが、ホークスは不滅です。行って参ります」と大阪に別れを告げた。ホークスは博多へ旅立った。

○…ドラフトで南海が19番を提示していなければ、「南海山内孝徳」は存在しなかった。2位指名の約束が守られず、契約に応じようとしない山内に対し、球団関係者が「金でごねているのか?」と発言。その言葉に山内は激怒し、話はこじれにこじれた。電電九州の先輩が「本気で入団を断るつもりなら、野村さんの背番号をほしいと言ってみるのはどうだ?」と提案。球団は受けるつもりはないだろうから、それを理由に断ればという話になり、山内はスカウトに「19番をいただけるなら」と伝えた。

スカウトは即答できず「持ち帰らせてほしい」と帰阪。だが予想に反し、球団は承諾した。さすがの山内も、折れた。指名からほぼ1年後、南海に入団。即戦力となり、19番に恥じない活躍を見せた。

◆山内孝徳(やまうち・たかのり)1956年(昭31)8月5日、熊本県生まれ。鎮西から電電九州を経て79年ドラフト3位で南海入り。野村克也元監督の背番号19を引き継ぐ。82年から7年連続2桁勝利。引退後は野球解説などで活躍。実働12年の通算成績は100勝125敗5セーブ、防御率4・43。球宴に3度出場。現役時代は175センチ、79キロ。右投げ右打ち。