プロ野球南海(現ソフトバンク)で捕手兼任監督を務め、ヤクルト、阪神、楽天でも指揮を執った野村克也さんが11日午前3時30分、虚血性心不全のため死去した。84歳だった。

<野村克也氏の主な歩み>

◆35年6月29日 京都府竹野郡網野町(現京丹後市)生まれ。3歳の38年に父親が他界。小学3年から新聞配達などで家計を支えた。

◆54年 京都・峰山高では甲子園出場経験なし。契約金ゼロ、月給7000円のテスト生で南海入団。

◆57年 初の全試合出場。初タイトルとなる本塁打王。

◆60年 来日した大リーグ・ジャイアンツの主砲メイズにヘラジカを意味する「ムース」のニックネームをつけられた。

◆62年9月30日 近鉄戦で別当の43本を上回る当時パ・リーグ新の44本塁打。大リーグの強打者ミッキー・マントルと同じ米国製バットを使い「マントルには負けられん。バットにお金は惜しまない」。

◆63年10月17日 シーズン最終打席で小鶴(松竹)の51本を更新する当時日本新の52号を放ち「胸がいっぱい」。

◆65年 戦後初の3冠王。前年に本塁打、打点の2冠でも減俸となり、交渉の席で「だったら3冠王を取れば文句ないんでしょ」と話していた。

◆68年10月3日 東京戦で満塁弾&サヨナラ弾。

◆69年11月 選手兼任監督を受諾し「引き受けた以上、ワシはやる。ついてこないヤツは捨てていい」。ヘッドコーチには外国人のブレイザーが就任。

◆72年10月10日 通算出場2236試合のプロ野球新。「努力、忍耐が必要なら運もいる。すべてのものがあって長い間、野球ができる。一番の問題は体だと思う」。

◆73年10月24日 南海の兼任監督として4年目で前後期制の前期優勝。後期12敗1分けだった阪急とのプレーオフを3勝2敗で制し「死んだふりV」と呼ばれた。

◆75年5月22日 王に次ぐ2人目の通算600号。「見てくれる人が見てくれたらいい。不人気のパにも、こんな選手がおるってことを。王や長嶋が日なたに咲くひまわりなら、俺は日陰に寂しく、だけど美しく咲く月見草」。

◆80年11月15日 45歳までプレーし、西武で引退表明。「生涯一捕手」らしく「もう1回生まれ変わっても捕手をやりたい」。

◆89年1月20日 野球殿堂入り。「名もないテスト生で入団した私の名が永遠に残るなんて」。

◆92年10月10日 甲子園で阪神を下し、ヤクルト監督で初のリーグV。「ID野球も最後は根性やな」。

◆93年10月15日 神宮で広島を下し、初めて本拠地で胴上げ。シーズン終盤、山の頂上が自然の猛威にさらされて形のいい木がないことに例え「高山の峰(いただき)に美木なし」と首位をキープする苦しさを表現した。この年は西武を4勝3敗で破り初の日本一。

◆95年10月26日 オリックスとの日本シリーズでイチローを封じ、4勝1敗で快勝。「うまくいきすぎ」。

◆同11月22日 ドラフト3位で三男克則を指名。「長嶋のようになれ。実力も人気もある、お客を呼べる選手になってほしい」。

◆97年 ダイエー時代には通算2勝しかできなかった田畑が移籍1年目の96年に12勝、97年には15勝を挙げ日本一に貢献。江本、江夏らを擁した南海時代から、他球団で芽が出なかった選手や自由契約になった選手を獲得して開花させ「再生工場」と呼ばれた。

◆98年10月25日 阪神監督に就任。「どうして勝てないのか。内に入ってみないと分からないが、若い選手に芽は出てきた。タイガースも変わったなというチームに育て上げたい」。

◆00年5月21日 横浜戦(横浜)で、遠山と葛西がそれぞれ交代で一塁を守りながら継投する奇策を初披露。

◆01年 春季キャンプで、赤星、上坂ら俊足7選手を「F1セブン」と命名。若手にスポットを当てることで競争意識を高めた。

◆03年9月2日 02年秋に社会人野球シダックスの監督に就任。03年都市対抗決勝で三菱ふそう川崎に惜敗も準V。「純粋、新鮮、ひたむき…。アマの良さを感じた」。

◆06年9月25日 高校生ドラフトで4球団競合の田中(駒大苫小牧)を獲得。「満点。大強運! 交渉権を獲得して喜ばしい半面、責任を感じる。大投手に育ってほしいので、精いっぱいの愛情を注ぎたい。チーム優先より田中君優先で考えたい」。

◆09年10月24日 楽天監督勇退。札幌で日本ハムとのCSに敗れると、両軍選手に胴上げされた。「感無量。胸につまされた。教え子が野球界にいるのは、やっぱり縁だね。人間何を残すかで評価されるけど、人を残すのが一番。少しは野球界に貢献できたかなという心境だ」。