「開幕と私」の第4回は阪神85年日本一監督・吉田義男氏(86)が、21年ぶりのリーグ優勝、12球団の頂点に立った1985年(昭60)の広島との開幕戦を語ります。

まさかの「隠し球」にあった痛恨の1敗。それが監督とコーチの信頼関係を築き、「ONE TEAM」に固まったのでした。【取材・構成=寺尾博和編集委員】

屈辱的な1敗が幕開けだった。1985年4月13日の広島戦(広島)は、2度目の阪神監督に就いた初年度の吉田にとって、忘れられない初陣になった。

吉田 長い野球人生のなか、あんなプレーにあったことはなかったので悔しくてたまらなかった。めったにできるもんと違いますよ。うちは絶好のチャンスに一瞬のスキを突かれた。

3対3の同点で迎えた延長10回の攻撃。広島左腕の大野に代打北村が左前打で出塁、トップの真弓がきっちりと犠打を決めた。1死二塁の絶好機に二塁走者北村が、二塁手木下の「隠し球」でタッチアウトになったのだ。

吉田 まさかですわ。誰もが気付いていなかったということになります。抜け目ないというか、くせ者タイプだった木下ですが「隠し球」にあうとはね。不注意といえばそれまで、プロとして恥ずかしいプレーでした。

無得点に終わったその裏の阪神は、広島福島にサヨナラ打を浴びた。開幕前からチームに「一丸」を強調していた吉田が痛恨の黒星スタート。吉田にとって「まさか」はまだあった。

吉田 これまであまり言ってませんが、宿舎に帰った後の出来事です。コーチ会議の冒頭、三塁コーチの一枝(修平氏)が「あれはコーチの責任ですから」と切り出した。そしてコーチ全員から罰金を徴収したのです。03年星野監督が岡田(彰布氏=元阪神監督)を三塁コーチに立たせたように、あそこは積極性が起用の条件です。一枝は職人肌でうってつけでした。一丸と言っておきながら、気のゆるみと言われても仕方のない結果でした。一枝なりのケジメだったんでしょう。でも勝敗の責任はわたしにあるから、自分も罰金を支払った。

翌14日の広島戦に競り勝ち、開幕カードを1勝1敗で終えた。地元開幕で甲子園に帰ったチームは16日からの巨人戦に3タテを食らわせた。17日のカード2戦目は、バース、掛布、岡田の「伝説のバックスクリーン3連発」が飛び出した。

吉田 一枝との絆が強まったし、監督、コーチが結束した。絶対にボールから目を離してはならないと警鐘になって、チームが引き締まった。

前年84年の吉田は、中日監督だった山内一弘からコーチ要請を受けている。

吉田 ヤマさんからの誘いは有り難かったが、よそに行く気はありませんでした。それで翌85年阪神監督になってリーグ優勝、日本一ですから、運も強かったんでしょうな。

◆隠し球 守備側の野手がボールを持っていながらあたかも持っていないように振る舞い、走者がリードを取ったところでタッチしてアウトにするプレーの通称。野球規則上の正式な用語ではないが、記録上は走者に走塁死がつく。成功の可否は、ボールを持っている選手ではなく、投手はじめその他の選手の巧みな動作が肝要だといわれる。なお、投手がボールを持っているように見せかけるため投手板に触れたりまたいだり、投球のまねをしたりした場合は、反則でボークとなる。

▼85年開幕戦VTR <4月13日3●4広島(広島)>

阪神は2年目の池田親興、広島はベテラン左腕の大野豊が先発した。先手は阪神。池田のタイムリーと真弓の2ランで3点を挙げた。ところが4回に2四球から1失点、6回に長内孝の2ランで追いつかれた。阪神は10回に隠し球でチャンスをつぶすと、その裏に山本和行が代打福嶋久晃のサヨナラ打で敗れた。もっともこの後、4月は9勝3敗1分けの勝率7割5分、13試合でチーム31本塁打と猛打で立て直しに成功。21年ぶり優勝と日本一につなげた。