墓前に供えられた色鮮やかな花が秋風に揺れていた。10月28日は巨人監督として9年連続リーグ優勝、9年連続日本一を遂げた川上哲治(享年93)の命日だった。

今年は生誕100年の区切りで、故郷熊本の人吉市を中心にイベントが盛りだくさんだったが、新型コロナウイルス拡大で延期・中止が相次いだ。

7月に熊本南部で発生した豪雨に追い打ちを掛けられたが、地元は被害を受けながらも必死に記念展示の再開にこぎつけるなど偉業をたたえてきた。

10月下旬には、川上にゆかりのある熊本工、済々黌、人吉に、球磨工の4校が交流戦を組んで白球を追った。始球式はおいにあたる川上修治が投げ込んだ。

熊本工で川上とバッテリーを組んだ巨人伝説の名捕手、吉原正喜の妹の孫の田代裕一が受け手。おらが町の英雄、黄金バッテリーの再現に巨人のユニホームをまとったスタンドの保護者が盛り上がった。

記念展示では「管理野球の確立」「先乗りスコアラー導入」「査定のコンピューター化」「スカウトの全国展開」など、川上の巨人改革は日本野球界の原点であることがうかがえる。

川上語録のコーナーには川上が考案した「球際」という造語の説明などもされている。1965年宮崎キャンプでひらめいた言葉だという。

「『球際のプレー』『球際の野球』はわたしの造語で、相撲の土俵際の強さから採った。捕れない球でも飛びついて、グラブではたき落としてでも食い止める。土壇場ぎりぎりまであきらめない。粘り強いプレー、粘り強い戦いだ。高度なベースボール、高度なプレーがプロの魅力だ」

実力のある者だけが生き残る世界で、川上はすべてにあきらめない姿勢を求めた。それが「球際」の強さを生み、極限のプレーとなって、前人未到のV9につながっていったのだろう。

生前にご自宅で「みなさんはいうが、巨人軍は決して長嶋、王だけで勝ったわけではない」と幾度もチームプレーという言葉を繰り返した姿がこびりついて離れない。

11月15日にフィナーレを迎える川上伝説が詰まった記念展示にも生花が供えられた。生誕100年記念事業実行委員会会長の岡本光雄は「なんとか形になった」という。

原辰徳が川上の監督通算勝利数を塗り替え、生誕100年に優勝という大輪の“花”を添える。墓前にそっと手を合わせた。川上に「監督とは?」と問うたことがある。「監督の器は、人間の器だ」。そう諭されたのを思い出した。(敬称略)【編集委員・寺尾博和】