阪神藤川球児投手(40)の足跡を振り返る「球児伝」の第3回は、阪神の元球団トレーナーで、11年から藤川の個人トレーナーを務める檜作英太氏(46)。プロ最多の80試合に登板した05年、07年の炎の10連投…。裏方としてサポートを続けながら、飛躍から引退までを見届けた。

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05年春季キャンプのブルペン。檜作氏は藤川の直球に目を奪われた。「すごいボールを投げるのに、どうして今まで1軍を行ったり来たりだったの?」。初めて施術を行った時、率直に問いかけた。「そこそこいいところまでいくんだけど、痛くなって投げられなくなったりするんです」「1年間1軍で頑張れるようにやろうよ。体のことはなんとかする」。“タッグ”の始まりだった。

体の準備の仕方で、2人は激しく意見をぶつけた。「そんなもん、ケンカですよね(笑い)。そういうぶつかり合いは、一番球児としたと思いますね」。一夜明ければまた元通り。活躍したい、させたいからこその衝突だった。「2005年も(体調面で)危ない時は何回かありました。みんなの見えないところでケアしたり、キャンプの時に1年間やろうと言った以上、責任があると思ってたので」。無我夢中で駆け抜け、80試合に登板。リーグ優勝も果たし、藤川は1年を戦うペースと自信をつかんだ。

07年、セ・リーグタイ記録の10連投を成し遂げる。「あの時はもう大変でした。止めたかったけど、チーム事情がそうじゃなかった」。どれだけ体をケアしても、投げ続ければ状態は上がらない。「行く! 監督が『行け』言うたら、行く!」。藤川は言い張った。気力とおとこ気。この間に2勝7セーブで10連勝に貢献した。

前だけを見る姿はいつも変わらない。大リーグ時代の13年、トミー・ジョン手術を受けた後も同じだった。異国で痛くて苦しいリハビリ。右肘も思うように動かず、投げる状態にはほど遠い。「メジャーリーグで80%以上の選手が復帰している実績がある。復帰した選手が手術する前よりも球速が上がったりしたケースもある」。そんな状況でも、並んだのは前を向く言葉だけだった。

ナイターの日は、午前11時半に最初のストレッチを行ってから計4回。デーゲームの日は午前7時ごろから始まる。毎日、最大限のパフォーマンスを見せるための準備だ。「常にここ数年は、意識しながらやってたと思いますけどね。『いつ辞めるやろ』っていうのを…」。藤川から冗談交じりに言われていたことがある。「あかんな、と思ったら言ってくれよ」。結局、檜作氏がその言葉を告げることはなかった。体全体を見れば、まだプロでも続けられる状態。それでも「まだやれるんじゃないの」と言うことはない。「ゲームがあればいつでも投げられる状態にしとくのが、自分のプロとしての準備だと。それがかなわないということが、引退を決めた理由の1つだと思います」。完璧な守護神は、最後は自ら引き際を決めた。【磯綾乃】

◆檜作英太(ひづくり・えいた)1974年(昭49)4月13日、和歌山県出身。行岡専門学校を卒業し、01年から04年までダイエー(現ソフトバンク)、05年から07年まで阪神で球団トレーナー。現在は兵庫県芦屋市で「檜作鍼灸接骨院」を営み、11年から藤川の個人トレーナーを務める。