4球団競合の末に、ドラフト1位で近大・佐藤輝明内野手(21)が阪神に入団した。日刊スポーツでは誕生から、プロ入りまでの歩みを「佐藤輝ける成長の軌跡」と題し、10回連載でお届けします。【取材・構成=奥田隼人】

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佐藤輝には、幻のタテジマ初打席があった。

「甲東ブルーサンダース」で活躍していた輝明は、小学6年生の10年9月に地元兵庫・西宮の阪神タイガースジュニアのセレクションに参加。才能が認められ、選抜チームに入った。同じ関西のオリックスジュニアからもオファーがあったが、先に決まっていた阪神を優先。同12月に行われるNPB12球団ジュニアトーナメントの出場が決まった。

家族はもちろん、輝明も選抜チーム入りを喜んだ。背番号はくしくも、プロ入りで再び背負うことになる「8」だった。しかし大会まで1カ月に迫った11月にアクシデントに見舞われる。右肘の痛みを訴え、そこからボールが投げられなくなった。実は同じ年の4月にも、右肩を痛めていた。当時は整骨院の治療で痛みが治まったため、精密検査は受けなかった。

父博信(53)は後悔まじりに当時を振り返る。「壊したのは僕の責任。(少年野球チームの)監督に『なんぼでも投げさせたってください』と言っていたんです。あの4月の時に、すでに肘にも負担がきていたのかも。レントゲンでも撮っていれば…」。輝明は抜群の野球センスで、捕手兼投手として早くからチームの中心を担っていた。小学生離れした肩の強さ。際立つ才能があだとなった。

福岡・ヤフードーム(現ペイペイドーム)で行われたジュニアトーナメントには、三塁コーチとして出場した。試合前には、現地で代打プランも浮上していた。当然ボールは投げることはできないが、バットは振ることができる状態だった。球場には、父博信の実家宮城から祖父勲も応援に駆けつけていた。

一生に1度の貴重な機会でもある。チームの監督から「バッティングだったら、いけるんじゃないか?」と打診されたが、「いや、やらない」と出場を拒んだ。晴れの舞台だが、プレーをすれば肩の具合が悪化するかもしれない。輝明は少しでも早く治そうと、打席には入らなかった。結局、背番号8のタテジマ初打席は実現することなく終わった。

あれから10年の月日が流れた。父博信はしみじみと語る。「あのタテジマを着て輝明がバッターボックスに立った時、僕は泣くと思います」。夢をかなえた息子の“初打席”を、今か今かと心待ちにする。

ケガが完治することなく、輝明は小学校を卒業。ノースローの日々が続く中、硬式の強豪チームには入らずに、地元西宮の甲陵中軟式野球部に所属した。(敬称略、つづく)