米大リーグ歴代2位、通算755本塁打を放ったハンク・アーロン氏が現地時間の22日、86歳で死去した。アーロン氏の当時の世界記録を抜き、868本塁打の日本プロ野球最多記録を持つソフトバンク王貞治球団会長(80)は「ジェントルマンで、メジャーリーグの選手のかがみだった」と悼んだ。

現役引退後は一緒に世界少年野球大会を開催するなど、厚い友情で結ばれていた。王球団会長は盟友の遺志を受け継ぎ、球界発展に力を注ぎ続ける。

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「世界の王」が野球人として尊敬するアーチストが他界した。巨人での現役時代、アーロン氏が持つ当時のメジャー記録755本塁打を抜き、868本塁打まで伸ばしたソフトバンク王球団会長は、球団を通じてコメントを発表し、その死を悼んだ。

王球団会長 本塁打数も安打数も打点も全てにおいてすごかった。長く現役でやってすごくジェントルマンだったし、メジャーリーグの選手のかがみだった。

交流の始まりは巨人時代の74年11月。日米野球でのホームラン競争だった。結果はアーロン10本、王9本。その年にベーブ・ルースの記録を破っていたアーロン氏について、当時「ルースの記録が不滅だと言われていたが、アーロンの記録こそ、本当に不滅で立派なものだ。たとえ僕が記録を破ったとしても球場の大きさなど、比較したら内容が違う」とコメントしている。その“不滅”への挑戦が「世界の王」への原動力。いつしか、互いに認め合う存在になった。

77年に756本塁打を放った際、米メディアは球場も違うし日米のレベルは違うと比較に否定的だった。だがアーロン氏は後に王氏を「正々堂々とプレーし、868本塁打という偉大な記録を打ち立てた。本当にすごい選手だ」とたたえ、1本足打法にちなみフラミンゴの剥製をプレゼントしたという。

アーチストで“紳士”だった2人に、自然と友情も生まれた。

王球団会長 世界少年野球推進財団では彼はアメリカを、私は日本を、ということで一緒に世界に野球を広めようとスタートした。

現役引退後の90年、2人が発起人となり、野球を世界に普及させるために「世界少年野球大会」をスタートさせた。千葉で開催された15年の第25回大会では、アーロン氏も開会式に参加。「王さんとは(74年日米野球の際の)本塁打競争の友情が続いている。スペシャルな存在」と再会を喜んだ。王球団会長も移動に車いすや、つえを使うアーロン氏を見て「こういう状況なのに日本に来てくれた。いつもの開会式より盛り上がった」と喜んでいた。

王球団会長 体が動いて元気だった時は毎回のように来てくれて、子どもたちの野球の普及に貢献してくれた。つい最近は毎回というわけにはいかなかったけれど、それでも常に心がけてくれた。

30年以上前から本塁打を極め、ともに日米の頂点に登り詰めた。2人にしか見えない景色があったに違いない。

王球団会長 とにかく素晴らしい野球人生だったと思う。いろいろとありがとうございました。

永遠の友情と盟友の遺志を胸に、野球の素晴らしさを世界に広め続ける。【浦田由紀夫】

◆ハンク・アーロン 1934年2月5日、米国アラバマ州モービル生まれ。54年、ニグロリーグからブレーブスに移り、メジャーデビュー。57年本塁打王、打点王の2冠でMVP。チームも43年ぶり世界一。74年4月8日、ベーブ・ルースが持つ本塁打記録714を更新する通算715号。75年ブルワーズに移り、76年現役引退。通算2297打点、6856塁打は歴代1位、755本塁打は2位、3771安打は3位。首位打者2度、本塁打王4度、打点王4度。ゴールドグラブ賞3度。球宴出場21度(55~75年)は史上最多。背番号44は76年からブルワーズ、77年からブレーブスの永久欠番。82年殿堂入り。現役時代は183センチ、81キロ。右投げ右打ち。