東日本大震災から10年。楽天を自由契約になった仙台市出身の佐藤由規投手(31)は、ルートインBCリーグの埼玉に入団することが決まった。

ヤクルトに在籍していた10年前の11年。3月11日、午後2時46分は横浜スタジアムでのオープン戦の試合中だった。試合は打ち切りになり、携帯電話はつながらない。登板日ではなかった由規は、球場記者席にあった赤い固定電話で仙台市の実家に何とか連絡が着いた。

同年、プロ入り最多の3完投を含む7勝を挙げた。開幕からローテーションの軸として活躍し、地元仙台市が舞台になったオールスターのファン投票で初めて1位に輝いた。

右肩を痛めて離脱したのは直後の9月。以降、長いケガとの戦いが続いた。

21歳だった青年が、あまりに多くのものを背負って腕を振った11年。当時の紙面で振り返ります。

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好調の小川ヤクルトに早くもVの予感がする。雨中決戦となった巨人との静岡第2ラウンドを制して8連勝。先発由規投手(21)は中断の影響もあって5回4安打1失点で降板したが、2勝目をマークした。東日本大震災で行方不明となっていた仙台育英の先輩、斎藤泉さん(享年22)の訃報が登板前に飛び込み、悲しみをこらえながらの熱投だった。畠山の同点弾、バレンティンの勝ち越し&ダメ押し弾などで首位をがっちりキープした。

投球再開の準備を進めるヤクルト由規に、再び大粒の雨が降り注いできた。5回を1失点で投げ終えた直後、午後8時3分に中断。同20分に投球練習を再開したが、無情にも雨脚は弱まらない。「ブルペンに入って、肩をつくってはいたけれど、代わるぞと」。結局58分間の中断。そのままマウンドを譲った。

試合開始直前に大雨が降り、開催自体が危ぶまれた。ぬかるむマウンド、滑る指先。すべてを受け入れて集中する。4回、先頭打者の亀井に対して1ボール2ストライクから、外角への152キロで空振り三振に切った。直後に大雨で2分間中断したが、無失点で切り抜ける。悪条件の中、2回にスクイズで許した1点に抑えた。

悲しみを胸に秘めた、マウンドだった。

この日、石巻市で仙台育英時代にバッテリーを組んで甲子園に出場した1学年上の斎藤泉さんの遺体が発見された。東日本大震災から1カ月半以上が過ぎていた。長く行方不明だった。由規の父均さんや、高校時代の恩師、仙台育英・佐々木順一朗監督が実家で対面した。枕元に、ヤクルトのユニホームを手向けた。

由規は登板前に一報を聞いた。

遠く静岡に降った涙雨。震災直前、仙台育英・佐々木監督に電話をすると、偶然斎藤さんが一緒だった。それが最後だった。由規にとっては、高校時代を支えてくれた恩人。勝利が何よりと、胸に刻んだ。

開幕2戦目で敗れた巨人打線に立ち向かった。決して本調子ではない。それでも両翼91メートルの狭い球場で1失点に抑えた。震災後、由規は変わったと、佐々木監督は言う。「自分の悩みがどれだけ小さいかを知ったんじゃないかな。地元のOBや後輩はみんな由規の活躍を見ている。頑張ってほしい」。

2度の中断を挟んだが、9回まで試合を行い、8連勝の立役者になった。由規は「旅行とかで雨はあるけど…。プロに入ってから中止になったことがないんです。晴れ男だと思ってます」。

最後まで悲しいそぶりは見せず、バスに乗り込んだ。

(11年4月28日の紙面より)