日刊スポーツの好評大型連載「監督」の第3弾は、阪急ブレーブスを率いてリーグ優勝5回、日本一3回の華々しい実績を残した上田利治氏編です。オリックスと日本ハムで指揮を執り、監督通算勝利数は歴代7位の1322。現役実働わずか3年、無名で引退した選手が“知将”に上り詰め、阪急の第2次黄金期を築いた監督像に迫ります。

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上田と徳島・宍喰(ししくい)小から宍喰中、海南高まで一緒だった同級生の吉田徳通(84)の自宅は、隣り合わせにあった。戦中戦後をともに生き抜いた友人に宍喰で会った。

「しばらくおって移っていきましたが、上田君はうちの隣で生まれたんです。わたしは体が小さいので野球をしていませんが、母親同士も同級生だったので自然と仲が良かった。野球をやるきっかけは、小学校の担任だった佐藤先生で『野球やれへんか』といったのも覚えています」

吉田が「小さい頃にもっとも印象に残っている」といったのは、中学の徳島県大会の決勝戦だった。まるで昨日のことのように懐かしんだ。

「あのときの上田君はおなかの調子が悪かったんです。でもキャプテンの上田君がキャッチャーフライを捕って試合終了でした。阪急の監督になっても大きな試合だと『来るか?』といって切符を取ってくれたんです」

中学時代にバッテリーを組んだのは、徳島商から明大に進んだ好投手の山崎清文。野球のとりこになったのは、宍喰中では徳島師範学校(現徳島大)から来た指導役の教師の影響が大きかったようだ。

1952年(昭27)に上田が海南高(現海部)に入学した時期に、同校に硬式野球部ができた。監督は市川隆夫。1年後輩の投手としてバッテリーだった谷口良一(83=宍喰建設工業会長)は「そりゃあ厳しい監督でしたが、厳しいだけではついていかない。なにより愛情があった」という。

「上田さんは頭脳的な捕手として全体をみた。例えばこちらがマウンドでガチガチのときに間を置いてくれたり、よぉ心遣いしてくれましたわ。捕手としてうってつけで、人を引きつける能力の持ち主。インサイドベースボール、管理野球というんですかな。それがプロ(阪急監督)でもはまったと思います」

高2夏の決勝は徳島商に敗れ、この2校が進出した南四国大会でも代表権を得られず、甲子園の夢はついえた。対戦した相手投手は宍喰中でバッテリーを組んだ山崎だ。谷口は2人の好投手と出会った運を強調する。

「宍喰いうのはいい捕手が出るんです。でもピッチャーにも恵まれた。山崎さんはすごい投手だった。関大で村山実さんいうピッチャーに出会ったのも大きかったでしょうね」

吉田は「勉強もよぉできた。関大の法科にいったのは弁護士になるつもりだったからです。うちにきたときに『将来なんになるんな?』と聞いた。いつの間にか野球に進んでいった」という。上田のサクセスストーリーは、宍喰の伝説になっている。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。海南から関大を経て、59年広島入団。現役時代は捕手。3年間で122試合に出場し257打数56安打、2本塁打、17打点、打率2割1分8厘。62年の兼任コーチを経て、63年に26歳でコーチ専任。71年阪急コーチに転じ、74年監督昇格。78年オフに退任したが、81年に再就任。球団がオリックスに譲渡された後の90年まで務めた。リーグ優勝5回、日本一3回。95~99年は日本ハム監督を務めた。03年野球殿堂入り。17年7月1日、80歳で死去した。