東海大相模(神奈川)の10年ぶりセンバツ優勝を、OBで“元祖 親子鷹”の巨人原辰徳監督(62)も喜んだ。

父貢さん率いる東海大相模で1年生から主軸を張り、春1回、夏3回と甲子園に出場。2年春には準優勝を成し遂げた。今年のチームも門馬監督と次男功外野手(3年)の“親子鷹”が話題に。準々決勝の福岡大大濠戦では、75年原監督以来となるセンバツでの親子鷹弾も放った。

常に母校の動向を気に懸ける原監督は、歓喜の瞬間をバンテリンドームに向かうバス車内のテレビで見届けた。「キャプテンが(胃腸炎で)いない中、チームも非常にまとまっていたしね。門馬君の野球というのが、すごく色濃く出たセンバツだったなっていうね。指導者としても、教育者としても、すごくいい面が大きくなってきたなという感じがしますね」。東海大相模と東海大の後輩でもある門馬監督の手腕に目を細め、続けた。「(門馬監督の)長男さんも一緒にやっていたからね。すごくクローズアップされて優勝しているけれども、お兄ちゃんはいま東海大学のキャプテンだからね。本当に野球一家だよね。(功外野手との親子鷹は)原父子をはるかに抜いた、門馬父子鷹だと思います」と、わが事のように声を弾ませた。

原監督にとって、東海大相模時代には忘れられない思い出がある。入学から約2カ月後の1974年6月26日。日刊スポーツの2面に王貞治氏が「行くぞ! 甲子園」と題字を記した企画があり、「東海へ 夢再び“親子鷹” 原監督と4番・辰徳君」との見出しの囲み記事で、監督を父に持つ、将来性の高い1年生4番打者として紹介された。

原監督 最初に新聞に出たのが日刊だった。高校時代に。うちの父は有名でしたし、その息子で1年生で、銚子商業と練習試合をして、それを書いてくださった。うれしくてね。新聞に出たことが。

紙面を飾った直後の夏、東海大相模の“親子鷹”として初めて甲子園の土を踏んだ。そこから「原辰徳」の名前は世の中に広まり、今では知らない人はいない野球人となった。それでも、高校時代の“出発点”は、名将となった今でも色あせずに残っている。

紙面で「原辰徳」が産声をあげて47年後。自身10度目のリーグ優勝となる3連覇と、同4度目の日本一を目指す指揮官として、巨人を率いている。前日3月31日には今季初黒星を喫し、今季は2勝1敗2分け。開幕直後とはいえ、2連敗で貯金を吐き出すわけにはいかない。原監督は、母校の活躍に「あやかるよ(笑い)。そんなに目立つ人たちではなくてね、チーム力という部分でね。久々に気持ちよく(東海大)相模高校の校歌を聴いてね、ジャイアンツもあやかるというところでいかがでしょうか」とほおを緩めたのもつかの間、中日戦前の練習に鋭い視線を送った。巨人のスローガンは「1Team!~和と動」。チームの“父”のような温かくも熱いまなざしを向けながら、息子のような年齢の選手たちを今季もしっかりと束ねていく。【浜本卓也】