球界には「助っ人」と呼ばれる男たちがいる。活躍の場を日本に求めて海を渡り、在籍は短くても強烈な印象を残してきた外国人選手たちだ。帰国後の人生は、あまり知られていない。しかし、彼らに共通するのは、今も心のどこかに「日本の記憶」を強くとどめているということ。シリーズ30は、そんな「あの助っ人たちの今」。第1回は89年に阪神で38本塁打を放ち、帰国後は2度の本塁打王を含む5度のタイトルに輝いたセシル・フィルダー氏(51)です。日本からの逆輸入メジャーで最も成功した男の第2の人生とは-。

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テキサス州マカレン。レンジャーズの本拠地アーリントンから車で8時間、メキシコ国境に近い田舎町に、あの大男はいた。待ち合わせ場所に現れたフィルダー氏は手を上げ、満面の笑みで語り始めた。その姿は引退後、転落人生を歩んだ男のイメージとはかけ離れたものだった。

「つらい経験は、人を強くするんだよ。大変なこともあったし、離婚もしたけど、今は幸せだ。息子ともついこの前、会ったよ」

98年にユニホームを脱いでから、第2の人生はスキャンダルまみれだった。ギャンブルで選手時代に稼いだ総年俸計4700万ドル(約58億8000万円)など全財産を失って、差し押さえや借金の督促、複数の訴訟を抱えていると伝えられたのは04年のこと。さらに最初の妻ステーシーさんから離婚訴訟を起こされ、家庭内暴力も発覚。長男プリンス(31=レンジャーズ内野手)からも、契約金から20万ドル(約2500万円)の使い込みをとがめられ、「父は死んだものと考えている」と絶縁された。そして失踪説まで流れ、球界の表舞台からひっそりと姿を消した。

目の前に現れたフィルダー氏は、そんな過去を感じさせない、明るく気さくな雰囲気だった。どん底を味わった男は意外にも、新たな人生を楽しんでいたのである。

07年に再起を図り、事業を立ち上げた。自身の名前を冠に付けた青少年の野球大会「エリート・ワールド・シリーズ」をスタートさせ、全米各地で大会を主催している。小、中、高それぞれのレベルのチームを集めてトーナメント大会を行い、アマチュア選手の育成に努めている。同氏は「大会は年々規模が拡大していて、今は5000ものチームが参加している。その中にはプロになった選手もいるし、大会には大学のスカウトも大勢くるから、活躍してスポーツ推薦や奨学金を得て大学に進学できた子どもたちも多い」と話すように、事業は順調に軌道に乗っている。現在は米国内のチームのみだが「日本のリトルリーグにもぜひ参加してもらいたいね」と将来的には、国際交流の夢も描く。

メジャーとの接点も再び、持ち始めた。数年前から始めたのが、古巣ヤンキースとのマーケティング契約。96~97年にヤ軍に所属した縁で、仕事の依頼を受けた。ヤンキースタジアムに観戦に訪れるVIPやスポンサー関係者を個室席に招き、同氏がその場でサインや写真撮影のサービスに応じている。そのため、シーズン中はほとんどニューヨークに滞在している。さらに、米国では著名人が参加するサイン会が各地で開催されており、出演オファーも多い。2度の本塁打王と3度の打点王に輝いた経歴は、自らの身を助けていた。そして、プリンスとも完全に関係を修復し、たまに遠征先の球場に顔を出している。

さらに今年に入って、うれしい出来事があった。日本企業からビジネスのオファーが届き、「(元阪急)ブーマー・ウェルズから電話をもらったんだ。日本でプレーした元助っ人外国人が大勢登場するスマートフォン向けのゲームを作りたいというので、協力することになった」。まだ日本で自分のことを覚えている人がいると分かっただけでも、天にも昇る心地だった。「日本が好きだよ。そのときオレはまだ25歳と若かったけど、阪神のスカウトが高く評価してくれ、『君は必ず活躍できる』と日本に連れていってくれた。今でも感謝している」。そしてフィルダー氏は、とめどなく出てくる日本での記憶をたどりだした。

(つづく)【水次祥子】

◆セシル・フィルダー 1963年9月21日、米カリフォルニア州生まれ。82年ドラフト4巡目でロイヤルズ入りし、85年にブルージェイズで初昇格。89年に移籍した阪神では打率3割2厘、38本塁打、81打点で本塁打王争いをしたが、9月に手を骨折してシーズンを終えた。90年からデトロイト・タイガースでプレーし2年連続本塁打王、3年連続打点王、MVP得票は連続2位。米球宴にも3回出場。ポジションは一塁手。右投げ右打ち。98年に現役引退。長男プリンスの他、2番目の夫人との間に子供2人、孫が4人いる。