今回の「あの猛虎は今」は的場寛一さん(40)の登場です。99年ドラフト1位で入団しながら、故障に泣き、退団後にトヨタ自動車で活躍。プロ・アマの光と影を味わった野球人生を送り、今は会社員として違う角度から野球界の発展を目指しています。

40歳になっても体形は変わらず引き締まっていた。都内にある倉庫を改装した先進的なオフィスで「今は充実しています」と目尻を下げた。

的場 もう阪神を辞めて13年目ですか。伝統球団のドラフト1位という肩書は一生続くと思います。仕事で紹介されるときに「彼は阪神のドラ1ですよ」と言ってもらって、よく覚えてもらっています。

アマでは走攻守そろった大型遊撃手として注目され、逆指名を取り付けようと動いた阪神、中日、西武、近鉄の中から地元球団を選んだ。6年間のプロ生活は故障の連続。1年目にデビューしたが、1年目と2年目のオフに左膝を手術。最も手応えがあった05年も開幕前に右肩を脱臼。阪神がリーグ優勝に沸く一方で、ひっそりと戦力外通告を受けた。

的場 どちらかというと苦しい思い出が多くて…。もし今、指名順位を選べるなら「2位で」と答えます(笑い)。ハードルが上がってしまいましたね。最初の新人合同自主トレで「こんなにカメラ向けられるか?」と驚いた。もちろん実力もなかったが、焦って、ケガにつながってしまった。

翌06年からアマに戻ってトヨタ自動車で大活躍。存分にプレーすると、阪神で同僚だった喜田剛に誘われ、日本では米スポーツメーカー「アンダーアーマー」の総代理店として知られる、株式会社ドーム(本社東京都)に入社した。

現在はスポーツマネージメントプラットフォーム部に所属。同社が取り組む新事業を担当している。昨年、四国ILとオフィシャルパートナー契約を締結。ユニホーム提供などのサポートの範囲を大きく超え、リーグとともに「野球を通じて四国を元気にする」ミッションを掲げる。東京と四国を往復する日々だ。

的場 野球のファンからもっと離れた人たちにも伝えていきたい。高校野球もそうですが、県民に(存在を)知ってもらって、帰属性を高める。それがスポーツの力だと思う。技術ではNPBにかなわないけど、県を代表して闘争心むき出しにプレーすれば、くすぐられると思う。

知られている通り、独立リーグはまだ資金や人が足りないのが現実だ。物心両面でバックアップをするのも重要な仕事。リーグ運営が立ちゆかなければ夢も理想も語れない。今年、四国IL・徳島から西武に入団した伊藤翔の姿に勇気づけられた。

的場 「頑張って徳島県の大使になりたい」みたいなことを言ってくれたんです。彼は千葉出身で、徳島には1年間しかいなかったのに。四国ILは地元密着のイベントに取り組んでいます。お金の流れや、ILの仕組みなどに理解のある選手ほど、積極的です。そういう選手が増えたら面白くなりますよ。

野球で四国を元気に、と言っても簡単ではない。「大きな話。協業です」と腹を決めて仕事にあたる的場さんは、独立リーグの「独立」を理想型として思い描いている。

的場 NPBではできないこと、真似できないことをやりたい。四国ILを目指しますという選手が出てきてほしい。スポーツをする人が増えて、元気になって、お客さんが流れていくというサイクルができればいいですね。

野球界のプロ、アマのトップを知る貴重な存在。栄光も苦労も味わい、野球に育てられてきたと思うからこそ、本気で取り組んでいる。(敬称略)

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的場さんの野球人生には「めちゃくちゃ楽しかった」第2章があった。戦力外通告された05年秋。未練を断つためにトライアウト受験。そこでトヨタ自動車関係者に勧誘された。「塁間しか投げられないです」と肩の状態を伝えると「一塁でいい」と獲得を熱望された。

「プロで経験してきたことの集大成という感じ。いろいろなものが見えた状態でプレーできました。自分で考えて、いろいろと試して。故障しないような練習もしました」

プロでは注目度の高さに戸惑い無理をしたが、その失敗を整理できた。今は独立リーグの選手やアマ選手に伝える機会がある。「阪神でももう少し余裕があれば『痛い』と言って休めたかもしれない。ひょっとしたら今もプロでやっているかも…。そう考えると人生って面白いですよね」とさわやかに笑った。

◆的場寛一(まとば・かんいち)1977年(昭52)6月17日、兵庫県生まれ。愛知・弥富(現愛知黎明)、九州共立大から99年ドラフト1位、逆指名で阪神入り。入団時の登録名は的場寛壱。6年間で24試合出場。06年からトヨタ自動車。日本選手権3度優勝、都市対抗準優勝に貢献。12年で現役引退。約2年、社業に専念したのちドーム社に転職。現役時は180センチ、72キロ。右投げ右打ち。