お互いをたたえあうように、支えあうように、肩を組んだ背番号23と19の後ろ姿。心からの、感謝の声をかけたくなるようなシーンだった。

オリックスとの日本シリーズ第6戦、日本一が決まった瞬間を、ヤクルト青木宣親外野手(39)は三塁側ベンチで迎えた。

肩を震わせながら、顔を腕でおおっていた。涙は止まらない。先にベンチを出た最年長の石川雅規投手(41)が、両手を広げて出迎えた。

セ・リーグを制した時、青木は誰よりも先にフライング気味に飛び出して喜んだ。CSファイナルステージを突破した時もとびっきりの笑顔だったから、やっと流せる万感の涙だったのだと思う。

「自分のやり残したことは、ヤクルトの優勝です」。

18年2月、メジャーから7年ぶりにヤクルト復帰した際の会見での言葉だ。

優勝への思いを抱えながら、メジャーと日本の野球の差に苦しむところから始まった。

復帰1年目の18年シーズンは、打撃面での試行錯誤が続いた。投手の違い、タイミングのとり方。バットもフォームも、迷って悩んだ。チャンスで打てなかったあとは、中堅手のポジションについてからすることがあった。

「ワァーーー ! 」

自分に向けられた、いら立ちの声。メジャーでは、試合中のプレーから生じる怒りや悔しさなど、自分の感情をストレートに表現することが当たり前だった。移籍した頃は「ノリ、もっと怒っていいんだよ」とチームメートから言われたことがあったという。

その環境の中で6年を過ごしたことで、自身にも変化があった。

しかし日本では、文化が違う。プロ野球選手は子どもたちの憧れの職業であり、お手本になる存在だ。

感情のはざまで、揺れ動くメンタル。思い切り叫ぶことで、気持ちを切り替えた。当時、レフトを守っていたバレンティンは青木の大きな声に驚き「ノリ、大丈夫か?」と心配した時期もあった。環境の変化に対応しようと、必死だった。

そんな青木の声が注目されたのは、2年後の20年シーズン。

新型コロナウイルスの影響で開幕が延期。無観客での開催が続いた。

「ナイスボール ! 」「粘ろうよ ! 」

レフトからマウンドに向けられたポジティブな言葉が、しーんとした球場に響いた。「ベンチの中、守備の時も声が投手に届くと分かっているので、お客さんがいるときよりも声を出している」と理由を明かしていた。

自分のための声は、チームメートに向けた前向きな声かけに変わった。

日本シリーズの期間中には第2戦から4戦まで、試合前の円陣で声だしを担当した。全員が輪になり、肩を組む。目をつむり、語りかけること1分以上。試合前の精神統一の時間となり、3連勝を引き寄せた。

2年連続最下位からの日本一。悲願であり、ヤクルト復帰の際の目標をついに達成した。

本当の有言実行。青木の声が、日本一までの道しるべとなった。【保坂恭子】