新庄魂継承!? 阪神ドラフト4位の前川右京外野手(18=智弁学園)が15日、プロで勝負カラーの「赤」をまとうプランを明かした。

鳴尾浜で行われた新人合同自主トレの第2クール最終日。イメージカラーを問われ「智弁が赤なので赤は好きです」とにっこり。肘当てやすね当ては「8割赤色」のアイテムをSSK社に発注。グラブも1つは赤色のものにする予定だ。

「赤」を身につけると、智弁学園・小坂将商監督(44)を「思い出す」という。「監督のおかげでここまでこれたので、ちゃんとした練習や行動を取らないといけないなと思います」。高校時代に愛用していた赤いハーフパンツも、練習着として寮に持ち込んだ。

「赤」は日本ハム新庄監督の現役時代のトレードマークだった。「闘争心が出る」と赤いリストバンドや肘当てを着用していた。前川は「新庄監督は大きなことを言って、最後はちゃんと結果で示す。自分もちゃんと発言して、それを結果で示せるようにしたい」と、“赤い先輩”の心意気も手本にしていく。

矢野監督と同様に、勝負パンツも「赤」だ。高校時代の公式戦などではいていたという。指揮官は19年の終盤に験担ぎで赤いパンツを着用し、20年には「矢野燿大監督勝負パンツ」としてグッズ化もされた。前川は「(いつか)もらいたいです」と指揮官に赤いパンツもおねだりするほど、赤が大好きだ。

14日には室内練習場で井上から打撃のアドバイスをもらうなど、チームメートと交流を深めている。“赤備え”で新時代を築いていく。【古財稜明】

◆矢野監督の赤パンツ 19年の閉幕間際に、験担ぎで連日赤いパンツを着用。チームは6連勝フィニッシュで3位に滑り込み、大逆転でCS進出を果たした。同年のドラフト会議にも赤パンツをはいて出席。20年春には、自身監修の「矢野燿大監督勝負パンツ」も発売。同年6月19日の開幕巨人戦にも着用して臨んだ。21年3月にも、「矢野燿大監督勝負パンツ第2弾」を発売。ファンからの「もう少し大きいサイズがほしい」という要望に応え、新たにXLサイズも追加した。

◆赤備え よろいや馬具などを、すべて赤色でそろえた軍勢。赤は遠目にも目立つため、勇猛果敢に戦う必要が生じた。戦国時代に武田信玄に仕えた飯富虎昌は、率いる軍勢に赤い軍装を備え勇名をはせた。ほかの武将もならうようになり、井伊直政は、「井伊の赤備え」と称して装備品を赤色で統一。「徳川最強部隊」や「赤鬼」と呼ばれた。また大坂夏の陣で真田幸村は、「真田の赤備え」として自身の部隊を赤備えに編成。徳川家と戦った。

<球界関係者と赤色>

◆パンツ 矢野監督のほか近鉄時代の梨田昌孝監督や、13年の第3回WBCでは山本浩二監督もはいて指揮。09年には楽天野村監督が3日間赤パンツを変えずに開幕3連勝を飾り「におうか?」と笑いを誘った。

◆バット 戦中戦後には川上哲治(巨人)が「赤バット」で猛打を振るい、大下弘(西鉄ほか)の青バットと人気を二分。本来は巨人カラーのえび茶色のイメージだったが、塗料の関係で赤くなったという。

◆手袋 俊足ランナー柴田勲(巨人)は赤い手袋がトレードマーク。ヘッドスライディング時などのケガ防止が手袋の目的だったが、目立つ赤がバッテリーに重圧をかけたという。柴田の赤手袋が打者がバッティンググローブをつけるきっかけにもなった。

◆リストバンド 阪神と日本ハムで活躍した新庄剛志は、赤をイメージカラーとして使用。赤のリストバンドがグラウンドに映えた。日本ハム現役時代の愛車は赤いフェラーリ。監督就任した昨秋の沖縄・国頭キャンプ視察は上下赤赤ジャージで登場。「僕、実は赤はあまり好き好きじゃないんです」と意外な発言も。

◆車椅子 阪神の赤星憲広は自身の名前にちなみ、赤をトレードマークに。愛称は「レッド」。社会貢献にも積極的で、現役時代は盗塁数に応じて赤い車椅子を施設に寄贈。03年からの7年間で301台を贈ったが「本当はあと100個か200個贈りたかった」。