日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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1984年(昭59)10月14日、日曜日。阪神は次期監督の最有力候補だった西本幸雄との深夜の交渉で、いきなり切り札をだした。電鉄本社トップで社長の久万俊二郎が直接出馬して口説いたが、西本が首を縦に振ることはなかった。

10月16日、火曜日。西本にわたりをつけた西梅田開発室長だった三好一彦は「次もだれにも気づかれないように、朝駆けで西本さんの自宅を訪ねました」と久万と2人で2回目の極秘交渉を試みた。

「この前(14日)は失礼しましたから始まって、こちらは食い下がったつもりです。結局、西本さんからの答えは同じでしたが、個人的な印象としては、少し気持ちがこちらに傾いたような感じを受けました」

しかし、その夜、三好が帰宅すると、またしてもあぜんとする光景が、テレビに映し出されていた。球団社長の小津正次郎が、代表の岡崎義人、編成部長・西山和良を伴って、早朝に会った西本宅を訪れているではないか。

雨降りの夜。午前中に久万と三好が極秘裏に要請を行ったのに、球団サイドは初の直接交渉といって独自に西本と話し合いの場をもった。本社トップの出馬は水面下で行ったが、球団側は公然と接触をはかった後で、取材にも応じていた。

「どうしてこういうことが起きているのか、まったく理解ができなかった。傘をもった小津さんと西本さんが玄関口で新聞記者やカメラマンに囲まれていた。おそらく西本さんも、本心ではこの会社はおかしいと不信感をもったのではないでしょうか」

なんともチグハグなできごとだ。今も三好が首をかしげる本社と球団の“二股交渉”は、大失敗に終わった。64歳だった西本は「わたしはもう若くないし、ユニホームを着る情熱がわいてこない」と態度を変えることはなかった。

10月20日、土曜日。西本は自ら球団事務所に足を運んで、小津に正式に断りを入れた。会見に応じた小津は「これ以上、西本氏に迷惑はかけられない」と説明。西本のほうは、本社社長の久万に電話でその旨を伝えたようだ。

“小津の魔法使い”といわれた男は「次の候補はオーナー(田中隆造)、オーナー代行(久万)の指示を待って動きたい」と週明けに電鉄本社で役員会が招集されることも示唆したが、すでに局面は変わっていた。

三好は電鉄本社が休みのため、久万の自宅に報告した上で、午前は京都・知恩院で、実母・喜美子の納骨式を営んでいた。それを終えて阪急電車で移動した梅田駅の公衆電話から連絡を入れると、久万が受話器の向こうで待ち構えていた。

「次は吉田に決めたからな…」【寺尾博和編集委員】

(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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