阪神の「六甲おろし」と巨人の「闘魂こめて」を同じ作曲家が生んだのは、あまり知られていない。古関裕而さんが野球殿堂に入り、3年前、長男の正裕さん(76)に聞いた話を思い出した。あるとき、記者に聞かれたという。

「両方のライバルの曲を作っていいんですか」

正裕さんは苦笑いで、父の思いを代弁する。「その世界で実績があって頼まれたから作るんですよね。向こうが頼んでくるわけだから。冗談ですが『古関裕而は節操がないね』って言われたりね」。はずむ旋律は似ている。「六甲おろし」は1936年(昭11)に「大阪タイガースの歌」として誕生。「闘魂こめて」が世に出たのは、ずっと後の63年だから、年季が違う。

父にとって愛着のある音色だったのかと思いきや、正裕さんが意外なことを打ち明けた。85年の話だ。阪神の日本一で「六甲おろし」は世間に定着。関西に住んでいた次女の紀子さんは大阪・梅田で「六甲おろし」を大合唱する虎党に遭遇した。

「あれ、お父さんの曲じゃないの?」

父は首をかしげた。「たぶん、そうだと思うけど、どんな曲だったかな」。全国区になった曲のルーツをメディアが追うようになった。正裕さんが回想する。「インタビューでは『私の会心作です』ってリップサービスで言っていました。作曲したのは50年近く前ですからね」。あの心の名曲は、当の本人の記憶の奥底に埋もれていた。

正裕さんは続ける。「曲を作るとき、白紙の状態で臨んでいたと思う。忘れないと白紙にはならない。前のと似ているから、ここを変えようとすると素直な曲はできない。捨てる、忘れるのが重要なのです」。生涯で5000曲を生んだ作曲家一流の軌跡があった。

なぜ、古関裕而が作曲したのか。福島市の古関裕而記念館で聞いた話がある。「作曲した『紺碧の空』で早稲田が勝ち始め、勝ち運にあやかってタイガースが依頼したのではないでしょうか」。当時は学生野球が全盛。早慶戦が大人気だった。31年に早大応援歌『紺碧の空』を手がけ、早稲田は上位へ。35年秋に優勝した。タイガースは36年に結成。コロムビアを通じて、26歳の裕而さんに作曲オファーが届いた。正裕さんが周囲から伝え聞いた話をもとにいきさつを推測する。

「阪神球団ができたときに若林投手がコロムビアの野球部から来た。球団歌を作ろうとして若林さんに相談して、若林さんからコロムビアに伝わって、まだ若いけど、『紺碧の空』で実績がある父に白羽の矢が立ったのではないか。考えられられる話で、自然です」

タイガース草創期のエース若林忠志が仲介した説がある。ともあれ、作曲を頼まれた裕而さんは困った。当時はプロ野球が生まれたばかり。「どうイメージしていいか分からず、とにかく元気のいい歌にしようと考えた」と漏らしている。先に佐藤惣之助の作詞ができていた。大阪まで取材に出かけ、着想したという。

正裕さんは言う。「いい曲ですよね。メロディーがキレイでシンプルだから、残ってきたのだと思うんです」。家で作曲するとき、楽器は使わなかった。隣の部屋から鼻歌だけが聞こえてきた。頭の中の五線譜から、いまも野球場で歌い継がれる名曲が生まれた。【酒井俊作】