西鉄ライオンズの黄金期を支えた中西太氏(日刊スポーツ評論家)が、11日午前3時38分、東京都内の自宅で心不全のため死去していたことが18日、分かった。

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駆け出し記者として中西さんの自宅に通い出した当時は、犬がいた中庭の掃除や、リビングルームの電球を替えるよう言いつけられた。出入りを繰り返すうちに、食事をしながらの取材に“格上げ”された。敏子夫人の手料理で、デザートのスイーツまで平らげた後がインタビュータイムになる。

中西さんは西鉄が奇跡の優勝を遂げた1956年(昭31)に監督・三原脩さんの長女敏子さんと結婚する。中西さんにとって義父で、人生の師だった“三原イズム”は原点だった。

三原さんは「戦前の怪物が中島治康(巨人軍4番、のちの監督)なら、戦後の怪物は中西太だ」と表現。さらにメジャーの大物打者をしのぐとまで言い切ったというから、“怪童”のすごさがうかがえる。

三原さんは“メモ魔”で知られるが、中西さんも師匠をまねるかのように、ぎっしりと帳面に打撃の技術論をしたためていた。そして、三原さんから諭された「人を見て法を説け」を忠実に指導に生かした。「花は咲き時、咲かせ時」は選手の見極めを間違わないようにという教えだった。

「よくおやじには虎の威を借りるなと言われたな。組織は人。チームづくりは人づくりだ、とな」

いつも主が座ったソファの後方には、家族との写真とともに、名将三原とのツーショット写真が大切に飾られてある。ただここ数年は、私に居間で振ってみせるバットが、体調とともに軽量で細くなっていくのが気になっていた。メールのやりとりを見返していると、悲しみがつのるばかりだ。【寺尾博和編集委員】