ヤクルトで国際スカウトを務め、ラミレス、ペタジーニらの獲得に尽力した中島国章氏(なかじま・くにあき)が29日に死去した。70歳だった。京都市出身。葬儀・告別式は6月3日午前10時から東京・品川区西五反田5の32の20、桐ケ谷斎場で。喪主は妻明美(あけみ)さん。通訳や国際スカウトとして従事し「ルイジ」の愛称で親しまれた。

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史上最強助っ人バースは、阪神ではなくヤクルト入団寸前だった-。衝撃的な歴史秘話を教えてくださったのが、中島国章さんだった。

話は41年前にさかのぼる。1982年(昭57)オフのことだ。ヤクルトの通訳を務めていた中島さんは、ハワイでのウインターミーティングに参加していた。すると、親しかったパドレスのジャック・マキーオン代表に呼び止められた。そしてバースの獲得を勧められたのだ。

武上四郎監督(当時)らヤクルト一行は、バースの代理人アラン・ミヤサンド氏との接触に成功する。たまたま同じホテルに泊まっていた同氏の部屋で、その打撃を分析した。ビデオデッキからの無機質な再生音が、逆に静かさを際立たせた。中島さんの目は、豪快さと確実性を併せ持つその打棒にくぎ付けとなった。

ところがバースは、膝の故障のため守備位置は一塁に限られていた。ヤクルトでは、大杉勝男、杉浦享という強打者たちが一塁を守っていた。打線からこの2人を外すことはできない-。武上監督の苦渋の決断で、ヤクルトはバースからの撤退を決める。中島氏は断腸の思いで、マキーオン氏とミヤサンド氏に断りの電話を入れた。

「バースが狭い神宮でプレーしていたら、どれほどホームランを打ったんだろうと今でも思います。彼とは球場で何度も話しましたよ。『あなたはウチに来るはずだったんだよ』とは、結局言わずじまいでしたけどね。それを知ったら、一体どんな顔をしたかなあ」

バースがヤクルトに入っていれば、85年の阪神日本一もなく、球界の歴史は一変していたかもしれない。87年にはバリバリの現役メジャー選手、ボブ・ホーナーがヤクルト入りした。3番バース、4番ホーナー。超絶クリーンアップが、大暴れしていたかもしれない。

勝負ごとに「もし」は禁句ではある。だからこそ、背徳の楽しさがある。昨年秋に東京都内のご自宅に招かれた際には、禁断の「タラレバ」話で大いに盛り上がった。

「阪神がバースを入団させたとき、ブーマー・ウェルズ(後に阪急ほか)も一緒に取ることが可能だったんだよ」

「私がヤクルトでアレックス・ラミレスを獲得するとき、アレックス・カブレラ(後に西武ほか)とどちらにするか迷ったんだ」

「巨人の国際部にいたときには、デニス・サファテ(後にソフトバンクほか)を取ることもできた。当時マーク・クルーンがいたから見送ったけど、あのときは怒られたなあ」

既に心臓を病んでおられたため、出歩くことがままならないお姿を見るのがつらかった。それでも眼光は鋭く、ゆっくりと一語一語を区切るように話す口調が強く印象に残った。往年の辣腕(らつわん)ぶりをうかがうことができた。

「助っ人の話を書きたくなったら、いつでも連絡してください。高野さんの『助っ人』として、いくらでもお話ししますよ」

ありがたすぎるお言葉が、最後になった。私にとっての「史上最強助っ人」中島国章氏。聞きたい話は、まだ山ほどあった。

【記録室=高野勲】(22年3月のテレビ東京系「なんでもクイズスタジアム プロ野球王決定戦」準優勝)