大型連載「監督」の第9弾は、今年90周年の巨人で9年連続リーグ優勝、9年連続日本一のV9を達成した川上哲治氏(13年10月28日逝去)を続載する。「打撃の神様」だった名選手、計11度のリーグ優勝を誇る名監督。戦前戦後の日本プロ野球の礎を築いたリーダーは人材育成に徹した。没後10年。その秘話を初公開される貴重な資料とともに追った。

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監督通算14年、優勝11回がすべて日本一。日本で初めて少年野球教室を開いた川上が眠る墓は、いつも生花であふれている。季節の花を絶やさないのが、愛娘の坪井雅子と分かったのは最近だった。今まで取材に応じなかった“川上の娘”は「わたしには、ごく普通のやさしい父でした」という。

自宅に近い中丸小学校に通い出した頃、自身が置かれた立場に気付く。「修学旅行に行くと、ホテルの人が、川上の娘だと見に来たりしました。でも嫌がらせもなく、普通にみんなと遊んでいましたよ」。

中高は東洋英和女学院、慶大に進学した。「かわいがられたというより、叱られなかった。すごく心配性で、母(董子=ただこ)は小学から私学に入れたかったのに、父が遠いのでダメと。留学も危ないから絶対許してもらえず、一事が万事そういう感じでした」。

川上 父親は娘に自分の理想像を求めるものらしいです。せがれ(貴光)は男として厳しくしつけたが、娘は純真な女性になってくれさえすればと思っていました。川上の子供としていろいろな目にあっていますが、私や家内の生き方をみているから、いざというときはきっといい方に判断はつくと信じていました。

監督の妻・董子は、帰宅後の足音で勝ったか、負けたかが分かった。雅子は「母は気が小さく、バス、電車の週刊誌の中づり広告で“川”の字を見るだけでドキッとし、勝っても冷たいと悪者みたいに新聞に書かれ、精神的うつ病みたいになった」と打ち明けた。

この間、コーチ別所毅彦とけんか別れ、広岡達朗と衝突した。マスコミに連日取り上げられ、心臓の動悸(どうき)が激しく、痩せ細って、自律神経失調が原因で直腸潰瘍で入院し、生死をさまよう。

雅子 宝塚歌劇出身の母は、明るく、楽しいことが大好きでしたが、父と結婚してから世界が変わって、勝負に生きる父を支えることだけに、自分の生活をかけるようになった。旅行にも行かないのは罪悪感を感じていたのかもしれません。勝ちすぎて面白くないと言われるし、因果な商売と思っていました。ずっと重荷ですよね。でも奥さまたちがよくいらして、悩んでいる気持ちを聞いてあげたり、ご飯を食べながら交流した。自分はどうなっても、父を支えるという信念だったと思います。

川上はコーチ、選手の夫人にも宮崎キャンプから手紙を送った。雅子は父から届いたはがきにあった「心にあり天下の春」という言葉を大切にしている。「心ひとつで世界は春にも冬にも、天国にも地獄にもなる意味と解釈しています」。

1965年(昭40)正月の川上家に、董子は入院中で不在だった。思い詰めた川上が辞任の意向をもらすと「パパから野球をとったら何が残るんですか。わたしはもう大丈夫。どんなことにも負けないで」と逆に勇気づけられて腹が据わった。家族で戦う覚悟を固めた瞬間だった。

川上は2月に宮崎から病床の董子に電報を送っていた。日付は2人の結婚記念日。生前の愛妻が大事にしまっていた。

「過ギタ二十年、昨日ノ如シ。雨アリ、風アリ、晴天アリ。変ワラヌ誠ニ感謝ス。今日アリ、明日アリ、苦楽アリ。喜ビニアフレテ、生キテ行コウ。テツ」 

この年、いよいよ栄光のV9がスタートする。【寺尾博和】(敬称略、おわり)

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