20年東京五輪で野球復活の可能性が高まり、五輪野球の過去、現在、そして、未来を取材した。

 【取材メモ・前編~51年前の東京五輪編】

 1964年の東京五輪を調べようと思ったきっかけは単純だった。以前の東京五輪のことを何も知らなかったからだ。先輩の意見を参考に、まずは、東京・文京区後楽の東京ドーム内にある野球殿堂博物館に通った。

 すると、五輪の公開競技として全日本学生選抜、同社会人選抜の2チームが、それぞれ全米学生選抜と試合をしていたことが分かった。そして、その選抜メンバーに度肝を抜かれた。

 1番太田(駒大)、2番大下(駒大)、3番末次(中大)、4番広野(慶大)、5番新宅(駒大)…。続きは、新聞を見て頂きたいが、とにかく、野球好きならよだれが出る豪華メンバーが名を連ねていた。

 最初に取材を申し込んだのは、中日、巨人などで活躍した広野功氏(71)だった。どんな話が聞けるのか楽しみにしていたら、結果は意外なものだった。

 

 「試合の内容は、ほとんど覚えていないんですよ」

 まさかの答えに、あぜんとし、ちょっぴりショックでもあった。しかし、取材を進めると、覚えていないという背景には納得できる理由があった。そして、この感想こそが、当時の五輪における野球の位置付けを物語っていた。

 

 「チーム競技が(五輪の正式)種目に選ばれるなんて当時は思ってもいませんでした。だから、五輪の正式競技に野球が入るなんて、全く頭にありませんでしたよ」。広野氏の言葉は五輪における野球の歴史そのものだ。

 あれから51年。その後の「五輪野球」は、ジェットコースターのように、めまぐるしく変遷した。その根底には、レジェンドの奮闘や挑戦があった。(つづく)【和田美保】