10月27日のドラフト会議で日本ハムが1位指名した東海大・菅野智之投手(4年=東海大相模)が、1年間、浪人する決意を固めたことが3日、分かった。2日に関東地区大学選手権で敗退し、凍結していた日本ハムとの交渉が解禁されたばかり。まだ、スカウトから直接あいさつを受けていない段階だが、伯父である原辰徳監督(53)が指揮する巨人でプレーすることを目指し、初心を貫くことになった。

 菅野が選んだのは、尊敬する伯父のもとでプレーすることだった。3日夜に神奈川県内で家族会議を行い、日本ハムには入団せずに、浪人して来年のドラフトで再度、巨人入りを目指す決意を固めた。東海大は2日に関東地区大学選手権で準決勝敗退。公式戦全日程を終え、日本ハムとの接触が解禁されたばかりだが、交渉開始を待たずに進むべき道を定めた。

 菅野にとって、巨人と原監督への思いは特別なものがある。幼少時にはおむつを替えてもらい、風呂に入れてもらい、小学生になるとキャッチボールの相手をしてもらった。95年の現役引退試合は、菅野が初めて見に行ったプロ野球の試合だ。大観衆の中で本塁打を放つ勇姿は、プロを志すきっかけになった。尊敬する人物は「原辰徳」と公言。共に戦うことを熱望してきただけに、他球団への入団は考えられなかった。

 菅野の祖父で原監督の父でもある原貢氏(76)は、日本ハムが事前に1位指名のあいさつをしなかったことに腹を立てていた。だが、菅野サイドの怒りの本質はそこではない。日本ハム関係者が菅野サイドに対し、ドラフトでは指名しない言質を与えていた。戦略とはいえ、それでも指名に踏み切ったことに不信感は募っていった。

 この日、相模原市内で取材に応じた貢氏は「最後は智之の意思だけど、本人も行きたくないと言っているようです」と、菅野に入団の意思がないことを明かし、「浪人するなら1カ月くらい、アメリカでメジャーの練習に参加できる所を探して目の保養をするのもいい」と海外武者修行プランを披露。周囲で着々と構想は練られている。

 10月28日の指名あいさつには、菅野は授業で欠席。日本ハムは交渉長期化との見方を示している。だが、近日中に再度スカウトが訪問すれば菅野も同席し、そこで入団拒否の思いを告げるつもりだという。全日本大学野球連盟に加盟しない浪人となれば、公式戦はもちろん対外試合にも出場できないなどリスクは大きい。それでも、来秋ドラフトの対象となる最短の道だ。巨人のユニホームに袖を通す日まで、菅野の覚悟は揺るぎそうにない。

 ◆菅野のドラフト指名後

 10月27日、日本ハムの交渉権獲得に困惑し「ちょっと難しいですけど、無事に終われたというのはすごくホッとしてます」と振り返るのが精いっぱい。翌28日には、日本ハムのスカウトが東海大を訪問し、大学の全日程終了まで接触しないことを約束。11月2日の関東地区大学野球選手権で、菅野は桐蔭横浜大戦に先発するもサヨナラ負け。涙を流しながら「今後どうするかまだ決めてませんが、一生のことなので、自分の意思でじっくり答えを出したい」と話した。

 ◆浪人メモ

 社会人や国内の独立リーグに所属すると、ドラフト対象選手となるのは13年以降で来年の指名は不可能。MLB、米独立リーグに進んだ場合、契約が切れてからさらに2年間指名できない。どこのチームにも属さない浪人なら、来年のドラフトで指名を受けられる。米国留学には明確な規定がないが、米国での浪人では江川卓、元木大介の例がある。

 ◆ドラフト1位指名選手の入団拒否

 過去25人おり、00年に内海哲也投手(敦賀気比、現巨人)がオリックス1位を拒否したのが最後。日本ハムの拒否は76年黒田真二投手(崇徳)80年高山郁夫投手(秋田商)の2人で、81年以降の最上位は全員入団。江川卓投手は作新学院時代に73年阪急、法大時代に77年クラウンと1位指名を2度拒否。浪人したケースとしては、77年江川、89年ダイエーを拒否した元木大介内野手(上宮)がいる。江川は78年に阪神が1位指名し、阪神と契約後に交換トレードで巨人へ入団。元木は90年に巨人が1位指名してプロ入り。